車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

白黒はっきりつける人文科学

2009年05月09日 | 論理

白黒はっきりつける、曖昧さがない。よい意味でもよく使われる表現であるが、学問の世界においても厳密性や、曖昧でないことが重視されることはよくある。しかしながら、白黒はっきりつけるような厳密性は実は人文科学の非常に大きな特徴で、自然科学や数学の世界においてはあまり見られないものである。

人文科学の世界の議論においては、言葉の意味の定義の厳密性や、定義や意味の範囲の厳密性が、重視され何々であるか、何々でないかはっきりさせようとする。しかしながら、自然科学の世界においては人文科学の世界に比べて曖昧で範囲や意味を曖昧にしたまま議論していくことがよくある。

そうなる理由は、第一に現実の世界においては白と黒で区別できることというのは少なく、中間的なものや過渡的な性質のものがたくさんあるために白黒はっきりさせて議論できないというのがある。そのため、むしろ現象の性質を連続的に捉えて、強度や硬度、酸性値など物事を程度で表すことがよくある。また、生物の定義や、哺乳類の定義も厳密に決まっている訳ではなくてある一定の定義を決めて普段は議論しつつ、境界線上にあたる場合や厳密に議論したい場合にのみそもそもの定義から考え直すことが多い。

第二に、現実問題として最終的な答えがどのような形で与えられるかは最後までわからない。というよりも、最終的に研究対象に対して適切な定義を与えること事態が最終目的の一つであるために厳密な定義を最初に与えてしまうことは出来ないというのがある。物質の区分にしても、長い間同じ物質であると考えられてきたものが違うと判明したりする長年の過程の結果として現在の形へと近づいてきたのであって、最初から分かっていたわけではなかった。だから、自然科学の世界においては性質や定義などを連続的に変化するものとして連続的に捉えることが多い。逆に言うと、連続的に色々な性質を厳密に連続的に捉えようとしているともいえる。

数学の世界においては、厳密性の意味はまた違って、白か黒かではなく、完全に正しいかそれ以外かである。数学の世界においては厳密に証明することが重要視されて来たが、その判断基準は常に厳密に正しいかそうでないかのどちらかであった。この基準を使えば、人文科学の理論の大部分は厳密ではないという理由で一蹴されるだろうが、完全性を重視するのも一つの厳密性を追求するやり方である。

話が戻って人文科学の話になるが、人文科学の世界においてははっきりと物事を判断するために白黒はっきり付けようとする。しかし問題は現実の世界においては多くの減少が少しの違いで完全に代わってしまうということは少ない。そして、そのようにして物事を判断しようとすると基準となった境界条件があまりにも大きな意味を持ち過ぎ最終的な結論に絶対的な影響を与えてしまうことになる。

経済学の世界においては、市場において同じ財に関しては少しでも値段が違うとすべての需要が一瞬で移動するということになっている。現実問題としてはありえないし、さらに大きな問題は、別の要因として認められると全体をひっくり返すような影響が認められることだ。最近書いてきたように累進課税や福祉給付が与える労働意欲の低下などの悪影響が長年問題視されてきた。しかし、他方では資本家と対峙する必要があると言う理屈になれば資本家から労働者へと分配を移動させることが絶対化して、他の労働者や産業の生産性への影響がほとんど無視されることになる。つまり、与える影響の程度の概念が不足しているために、ほんの少しでも絶対的な影響を与えたり悪影響を心配したりするし、逆に他の要因となると前の要因をすべて吹き飛ばしてしまったりすることになる。このような議論がまかり通るのは人文科学の一つの特徴とも言えるのである。

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ヨーロッパ中心主義

2009年05月09日 | 文化論

昨日の話の補足でもあるのだが、西洋が発展した理由と、産業革命が起こった理由に関しての議論について書いてみる。昔からなぜ西洋が現在のような発展を遂げたのか、産業革命や生産量の劇的な増大がなぜ可能になったのかについて議論や研究がなされてきた。当然、これほどの変化が起こったのであるから何か劇的な変化や、いくつもの重大な進歩が途中にあったことは間違いない。

しかし、重要なことは新しいことを発見したり発明したりしたことによって発展するということと、周りのものがそれを真似することが出来ず発展できないくらいに文明の進歩の度合いに違いがあるということとの間には、断絶に匹敵するくらいの開きがあると言うことだ。これは、現在の経済や社会を考えてみるとすぐ分かることであるが、どこかの会社が新技術を発見したり効率的な生産方法を開発したとする。そうすれば、当然その会社は競争的に優位に立つだろうが、他の会社もそれに追いつこうとするために差は次第に縮まっていくだろう。研究の世界においても、最初に発見するには並外れた頭脳と独創性を必要とするが、三十年もすれば新発見を多くの人が当たり前のように使いこなしているというのはよくあることだ。つまり、新しい優れたものを開発するのと、それを真似して学習するのとでは難易度に天と地ほどの開きがあるということだ。

これは、文明の発達においても同じ事で最初に発見されるには並外れた人間が必要とされるが、一度発見されてしまえばそれは急激に伝播していくことになる。人類が灌漑を発見し最初の文明を作り出したのはもう四千年も前の話になるが、四大文明と言われる様に、四つの地域において同じような技術に基づく文明が時期をそれほど隔てないで登場した。このことには、新しい技術や社会制度の構築方法においてある程度の知識の共有や伝播があったことを想像させる。つまり、独自にどこかが発展し他の場所には何も起こらなかったのではなく、どこかが発見したことが他に影響を与えたといえる。そして、最初の文明達が生み出した知識は他の地域へと広がっていき世界全体で農業が営まれるようになっていった。同じように、現在でも先進国間において知識の伝播や技術の共有化が起こっていて、先進国間においては長期で見ると経済発展は同じレベルへと収斂していくことが実証的に明らかになっている。

だから、そのような技術や知識、新発見の一般的な性質を考えると、欧米社会だけの発展や、さらには西洋の発展の過程で逆に周辺においては衰退が起こったことは奇異に感じる。つまり、通常であればどこかの社会が新しい優れたものを生み出せば周辺の社会はそれを真似して受け入れ追いついていくのが普通なのに、そのようなことが起こらずに逆に衰退さえしたのはなぜだろうかと疑問に思えてくる。これに対する一つの答えは、発展には西洋特有の自由や民主主義的な価値観やキリスト教的な価値観が不可欠なので、遅れた社会にはまったく受け入れることが出来ずに停滞が起こったということであるが、この主張は価値観とは関係なしに技術が伝播できるという性質や、大陸ヨーロッパにも実は民主主義的な制度はちゃんとなかったにも関わらず産業革命が起こったという事実と明らかに矛盾している。

従属理論やヨーロッパによる収奪論はこのようなところから出てくるものであるが、それほど過激ではなくても通常の歴史を考えるとヨーロッパが発展していく中で周辺の文明が衰退したというのは奇妙な現象なのである。だから、これからの研究によって明らかにしていくべきことが残っていることは確かなのだが、まず第一に新発見をすることとそれを他のものが真似できないということとの間には絶対的な開きがあることを認識する必要があるだろう。そして、西洋が優れていたから新しい発見をしたんだから、他の社会が真似すら出来ないくらいに優れていたはずだという歴史経験的にナンセンスな議論から一歩引いた上で、どのようなことがほんとにあったのかを議論していく必要があるだろう。

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