白黒はっきりつける、曖昧さがない。よい意味でもよく使われる表現であるが、学問の世界においても厳密性や、曖昧でないことが重視されることはよくある。しかしながら、白黒はっきりつけるような厳密性は実は人文科学の非常に大きな特徴で、自然科学や数学の世界においてはあまり見られないものである。
人文科学の世界の議論においては、言葉の意味の定義の厳密性や、定義や意味の範囲の厳密性が、重視され何々であるか、何々でないかはっきりさせようとする。しかしながら、自然科学の世界においては人文科学の世界に比べて曖昧で範囲や意味を曖昧にしたまま議論していくことがよくある。
そうなる理由は、第一に現実の世界においては白と黒で区別できることというのは少なく、中間的なものや過渡的な性質のものがたくさんあるために白黒はっきりさせて議論できないというのがある。そのため、むしろ現象の性質を連続的に捉えて、強度や硬度、酸性値など物事を程度で表すことがよくある。また、生物の定義や、哺乳類の定義も厳密に決まっている訳ではなくてある一定の定義を決めて普段は議論しつつ、境界線上にあたる場合や厳密に議論したい場合にのみそもそもの定義から考え直すことが多い。
第二に、現実問題として最終的な答えがどのような形で与えられるかは最後までわからない。というよりも、最終的に研究対象に対して適切な定義を与えること事態が最終目的の一つであるために厳密な定義を最初に与えてしまうことは出来ないというのがある。物質の区分にしても、長い間同じ物質であると考えられてきたものが違うと判明したりする長年の過程の結果として現在の形へと近づいてきたのであって、最初から分かっていたわけではなかった。だから、自然科学の世界においては性質や定義などを連続的に変化するものとして連続的に捉えることが多い。逆に言うと、連続的に色々な性質を厳密に連続的に捉えようとしているともいえる。
数学の世界においては、厳密性の意味はまた違って、白か黒かではなく、完全に正しいかそれ以外かである。数学の世界においては厳密に証明することが重要視されて来たが、その判断基準は常に厳密に正しいかそうでないかのどちらかであった。この基準を使えば、人文科学の理論の大部分は厳密ではないという理由で一蹴されるだろうが、完全性を重視するのも一つの厳密性を追求するやり方である。
話が戻って人文科学の話になるが、人文科学の世界においてははっきりと物事を判断するために白黒はっきり付けようとする。しかし問題は現実の世界においては多くの減少が少しの違いで完全に代わってしまうということは少ない。そして、そのようにして物事を判断しようとすると基準となった境界条件があまりにも大きな意味を持ち過ぎ最終的な結論に絶対的な影響を与えてしまうことになる。
経済学の世界においては、市場において同じ財に関しては少しでも値段が違うとすべての需要が一瞬で移動するということになっている。現実問題としてはありえないし、さらに大きな問題は、別の要因として認められると全体をひっくり返すような影響が認められることだ。最近書いてきたように累進課税や福祉給付が与える労働意欲の低下などの悪影響が長年問題視されてきた。しかし、他方では資本家と対峙する必要があると言う理屈になれば資本家から労働者へと分配を移動させることが絶対化して、他の労働者や産業の生産性への影響がほとんど無視されることになる。つまり、与える影響の程度の概念が不足しているために、ほんの少しでも絶対的な影響を与えたり悪影響を心配したりするし、逆に他の要因となると前の要因をすべて吹き飛ばしてしまったりすることになる。このような議論がまかり通るのは人文科学の一つの特徴とも言えるのである。