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週刊 日本の100人 第59号 板垣退助

2019-09-08 05:03:38 | 歴史関連情報
週刊日本の100人 板垣退助

シリーズ第59号は、板垣退助です。



私には、100円札の人というイメージが板垣退助です。

簡単に紹介します。

天保8年(1837年)土佐藩士の子として生まれました。
大塩平八郎の乱が起こった年なので、世相がわかります。

藩主・山内容堂に認められ、藩の要職を歴任します。
戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いで藩の大隊司令として活躍し、会津藩などの攻略を行いました。大河ドラマ「八重の桜」では、どんな描かれ方をするのでしょうか。

1867年には明治新政府参与から始まり要職を歴任しますが、ご存じのように1873年に征韓論で破れて、西郷隆盛とともに下野します。

1874年には後藤象二郎らと「民選議院設立建白書」を建議したが却下され、自由民権運動を推進します。

1881年には、10年後の帝国議会開設の詔が出され、自由党を結成します。
岐阜で遊説中に刺されたのは、その翌年です。

一度は自由党を解党しますが、帝国議会開設後には、立憲自由党として再興し、翌年自由党に改称してその総理となりました。

1898年には、進歩党と合同して憲政党を組織し、大隈重信内閣の内相に就任しました。いわゆる「隈板内閣」です。日本初の政党内閣といえるでしょう。しかし、両者の対立は根深く、4ヶ月ほどで総辞職しました。

岐阜で刺された折には、「板垣死すとも自由は死せず」叫んだといわれていますが、実際は「医者を呼べ」という内容の言葉だったそうです。その医者が後藤新平で、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語りました。
その後、本当に政治家になったのです。

社会を動かしたという点で、まさしく偉人です。


特集
板垣退助
 板垣死すとも自由は死せず

ライフ&タイム
 自由民権の闘士が理想を追い求めた82年
  揺れ動く幕末の土佐で/失望の明治新政府
  国会開設へ挑む/立ち上がる民衆のカリスマ
  社会に尽くした晩年

ヒューマンエピソード
 我が道をひた走った正義感あふれる熱血漢

クローズアップ
 板垣襲撃さる! 岐阜遭難事件の余波

人物スクランブル
 板垣退助 人物相関図
  後藤象二郎/植木枝盛/後藤新平/太刀山峰右衛門
  
後世への遺産
 ボランティア、民主主義……熱き活動家が伝えた思想
 
評伝アラカルト
 板垣退助考
  古川 薫/中江兆民/鳥谷部春汀
  福澤諭吉/徳富蘇峰/谷 干城

ビジュアル人物事典
 竹本義太夫/太宰 治/橘 逸勢/橘 諸兄
 伊達稙宗/伊達輝宗/伊達晴宗/伊達政宗

日本の100人ミュージア

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