【戦国こぼれ話】財源を確保せよ!豊臣秀吉はどうやって巨万の富を築いたのだろうか?
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太閤蔵入地の設定
蔵入地の総額は31ヵ国で約21万石あり、その規模は草創期の江戸幕府に匹敵するものだったといわれている。かなりの石高だったのだ。
■莫大な運上金
太閤蔵入地の全貌を記した『慶長三年蔵納目録』によると、各国からの諸役運上は金1002枚、銀1万3950枚という高額なものだった。
太閤蔵入地が置かれたのは全国の主要都市が大半で、それらは経済や交通の要衝地であった。蔵入高は摂津、河内、大和、山城、近江、尾張、美濃、伊勢、越前、播磨、若狭、丹波、紀伊、淡路が全体の約70%を占めており、おおむね畿内近国が大半であったことに気付く(九州北部も多かった)。
■ドル箱だった鉱山
なかでもドル箱だったのは、金銀銅が採掘された鉱山である。当時、日本の銀は石見銀山(島根県大田市)を中心にして世界に輸出されるなど、驚くべき産出量を誇っていた。鉱山にはそれほど高い価値があったのだから、秀吉が見逃すはずがない。
『慶長三年蔵納目録』によると、鉱山の運上は金3397枚余、銀7万9415枚余であったといわれている。先に各地の主要都市からの運上金を示したが、それよりも高かったことがわかる。まさしく、宝の山だったといえよう。
■傘下に収めた銀山
秀吉が蔵入地に編入した鉱山で有名なのは、世界遺産にもなった石見銀山に違いない。実際に銀山を管理したのは、毛利氏だった。毛利氏は奉行を石見銀山に置き、豊臣家に採掘した銀を運上していた。
畿内から近い場所では、生野銀山(兵庫県朝来市)が有名である。多田銀山(兵庫県川西市など)もあったが、当時は産出量が乏しかったという。とはいえ、秀吉は主要な鉱山を傘下に収めたのだから、ほかの大名が太刀打ちできるわけがない。