今朝は新聞休刊日なので、昨日のコラムを紹介します。
朝日新聞
天声人語
作家の田辺聖子さん(83)は、玉音放送を一家で聴いた。「降伏したみたいなこと、いうてはる」と父。「フシが、なさけなさそうですなあ」と母が頷(うなず)く。大人の脱力ぶりに呆(あき)れ、17歳の軍国少女は一人、無念を日記にぶつけた(回想『欲しがりません勝つまでは』)▼66年前のきょう、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に伝えた。深夜に録音された終戦の詔書が、翌15日昼、NHKラジオで流される。大衆が初めて聴く陛下の声だった。漢語の多用と雑音で、すぐには解せぬ人も多かった▼野坂昭如さん(80)はそれでも、終わったと感じた。もう空襲はないと思うだけで、体の芯がとろけるような安堵(あんど)を覚えたという。終戦の日、どこで何を思ったか、百人に百の話があった▼各人に語るべきものがある大震災も、時代を画す共通体験に違いない。すべきことが山とあるのは敗戦時と同じだが、私たちに高揚はない。虚脱の暇(いとま)もない。津波、原発にとどまらず、日本は複合的な不全の中にある▼ひと声で動く世でもなし、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、不全の理由を一つずつ取り除いていくほかない。より生きやすい国を目ざして、まずは荒れ放題の政治と財政から手をつけたい▼NHK放送博物館の「玉音盤」は窒素ガスの中で眠る。今に残る音源は、傷む前のレコード盤から占領軍が複製したものだ。米国は「多くの命を救った放送」に価値を認めた。生かされた人々は驚異の復興を成し遂げる。もう一度できないはずがない。
読売新聞
編集手帳
一升瓶の中の玄米を棒でザクザクと搗(つ)く。戦時中や終戦直後の映像に見る苦労を体験してみた。この単調な作業を何時間続けて、配給米を白米にしたのだろう◆拝んで分けてもらった屑(くず)イモを詰めたという、リュックと風呂敷包みも抱えてみた。合わせて5貫(約19キロ)。主婦の買い出し体験記から再現したそうだ。担げることは担げるが、遠方まで持ち帰る自信はない◆靖国神社に近い東京・九段の「昭和館」で、〈戦後復興までの道のり/配給制度と人々の暮らし〉と題した特別展を開催中だ。順路の最後に、必需品が手に入らぬ状況の大変さを、わずかながら身をもって味わえる◆昭和26年に電力会社が貼り出したポスターもあった。週に2~3日の計画停電を行う、との告知である。見る人の多くが〈戦中・戦後〉の展示物の一つ一つを〈災中・災後〉と引き比べることだろう。今回の大震災をも凌(しの)ぐ苦境を、日本人は乗り越えてきたのだ――そう思うと勇気づけられる◆あすは終戦の日。神社や寺に赴き、〈この災厄も必ず乗り越えてみせます〉と胸の中で誓いつつ、苦難に耐えた世代に手を合わせたい。
毎日新聞
余録:あす終戦記念日
「五時から部会があったが、出席者は少なかった。そのあと薄暮の町を歩いてみる。街はひっそりと焼けあとだけがどこまでも拡(ひろ)がっている。何年かぶりで散歩といった歩き方をする。ゆうべ京都で見た下弦の月が焼土の上にかかっている」▲これは66年前の8月15日、当時毎日新聞大阪本社に勤めていた作家、井上靖の回想である。この時までに彼は「玉音ラジオを拝して」という社会面のトップを書き終え、街の様子の雑感2本を出稿していた。だが、歴史的一日の新聞社の夕刻とは思えぬ静けさが漂う▲「戦ひに果てしわが子も聴けよかし かなしき詔旨(みこと)くだし賜(た)ぶなり」。これは同じ日に詠まれた釈迢空(しゃくちょうくう)の歌である。途方もない数の人々の死、焦土と化した街々、今までの信念を打ち砕く破局に直面した無力感や虚脱。多くの日本人がそれらを涙で表した日だった▲まさか目前の惨禍に同じような無力感を抱くとは、ほんの半年前は思いもしなかった今日の日本人だ。そして今、廃虚となった街々、多くの死者や不明者と残された肉親の悲しみ、避難したままの人々、疎開した子どもたち--あの夏を思わせるあすは終戦記念日だ▲破局はなぜ防げなかったのか。この66年間、繰り返し問い直してきた日本人だ。今年より後は、津波と原発の惨害は防げなかったのかとの問いもそれに重ねられる。もたらされた災禍をどう乗り越えて、何を学び伝えるのか。「震災後」という時代を私たちは生きる▲「この夜も宿直室に眠ったが、眠りは浅く、ひどく寝苦しかった」。先の井上靖の文はこう結ぶ。その「戦後」は翌朝から始まったといってよかろう。
日本経済新聞
春秋
大災害の後には、人々の新たなつながりが生まれる。地震、大風、テロなどに襲われた町で何が起きたかを調べ、そう結論づけた研究書が米国の「災害ユートピア」だ。昨年末に日本語訳が出版され、3月の大震災で注目を集めている。
▼食材を持ち寄っての炊き出し。信号の消えた夜の交差点では自主的に交通整理。各地から集まるボランティア。一般の家庭による被災者の受け入れ。ふだんは競争に明け暮れる人々も、パニックに陥らず、助け合い、食べ物を分けるなど「無数の利他的な行為」が見られたと、ノンフィクション作家の著者は記す。
▼本に登場するのは米国を中心に中南米、欧州などの事例だが、東日本大震災に見舞われた日本も例外ではなかった。あの日から5カ月余り。人々が支え合い、支援の若者が泥かきに汗を流す。その一方でがれき処理や復興の全体像づくりなど、歯がゆく感じる部分も多い。頑張る民、もたつく政・官の差が際立つ。
▼大災害は政変の引き金にもなる、と著者。メキシコでは地震が一党支配を揺さぶり、チェルノブイリ事故はソ連を消滅させ、大型ハリケーンはブッシュ政権の支持率を下げた。政府の無能ぶりや秘密主義への怒り、情報公開の進展の結果だ。日本でも間もなく首相が退陣する。果たしてトップ1人の交代で済むか。
産経新聞
産経抄
昭和20年8月14日、つまり終戦の日の前日、東郷茂徳外相はアジア各地駐在の外交機関あてに暗号の緊急電を発した。日本の敗戦で、大東亜会議に参加した親日国の要人は厳しい立場に置かれる。もし望むなら日本への「移行」に便宜をはかれとの内容だった。
▼「敗戦国日本に呼び寄せたあとの対策や見通しがあったとは思われないが…日本なりに誠意を示したのであろう」。親日政権のひとつ、汪兆銘政権を追った『我は苦難の道を行く』の中で上坂冬子さんはそう書いている。確かに敗戦前夜の国とは思えないような「気遣い」である。
▼「亡命」を打診されたひとりが中国・南京政府の陳公博代理主席だった。汪兆銘亡き後、同政府を率いていた。陳主席は当初、申し出を断る。だが自分が南京に残れば蒋介石軍と衝突が起き市民に犠牲者が出ると判断、25日に日本へ向かうことになる。
▼一行7人の引導兼警護役を任されたのが小川哲雄陸軍主計中尉だった。拓殖大を卒業、中国語に堪能で南京政府の軍事顧問などをつとめていたからだ。南京から飛行機で青島に向かうと見せかけ、海を渡り一気に鳥取県米子の空港に着陸、「亡命」は成功する。
▼その後も小川中尉らの努力で京都に入り、金閣寺に潜伏する。だが戦勝国側の圧力の前に、日本政府による保護には限界があった。中国・重慶政府の「帰国命令」には抗しきれず、陳主席は10月初めに帰国、翌年銃殺刑に処せられる。
▼敗戦国が亡命を受け入れるなどしょせん無理という見方もあるだろう。だが国も我が身もどうなるかわからない中で誠心誠意、他国の要人のために働いた日本人がいた。そのことは誇りとして語り継いでいきたいものである。
中日新聞
中日春秋
撮影現場では泣かないと決めていた巨匠も、クランクアップの後、弁当を食べていると、胸がいっぱいになった。豪華ではないおかずが涙で曇り、見えなくなったという
▼九十九歳の新藤兼人監督にとって「最後の作品」となる『一枚のハガキ』の公開が始まった。立ち見客も出る映画には、三十二歳で召集された新藤さんの戦争体験が直接、反映されている
▼ともに応召した中年の新兵百人のうち、輸送船でフィリピンに向かった六十人は米潜水艦の攻撃で海に沈んだ。三十四人は潜水艦や海防艦で、戦死した可能性が高いという
▼内地に配属され、生き残った六人の一人が新藤さんだった。上官が引いたクジの行き先に、兵士とその家族の運命が無情にも振り分けられたのだ。九十四人の魂を背負って生きた戦後だった。フィリピン行きが決まり、死を覚悟した戦友が新藤さんに見せたのは、妻から届いた愛情のこもったはがきだ。その文面を忘れられず、最後の映画のテーマになった
▼描きたかったのは、将官や参謀らが見た戦争ではなく、末端の二等兵が見た戦争だった。「私が見た戦争を映画にしてからじゃないと死ねないと思った」と新藤さんは語る
▼引き裂かれた家族の無念さと、どんな苦難も乗り越える人間の強さが描かれた作品は、東日本大震災の発生から初めて八月十五日を迎える今、なおさら心に響く。
朝日新聞
天声人語
作家の田辺聖子さん(83)は、玉音放送を一家で聴いた。「降伏したみたいなこと、いうてはる」と父。「フシが、なさけなさそうですなあ」と母が頷(うなず)く。大人の脱力ぶりに呆(あき)れ、17歳の軍国少女は一人、無念を日記にぶつけた(回想『欲しがりません勝つまでは』)▼66年前のきょう、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に伝えた。深夜に録音された終戦の詔書が、翌15日昼、NHKラジオで流される。大衆が初めて聴く陛下の声だった。漢語の多用と雑音で、すぐには解せぬ人も多かった▼野坂昭如さん(80)はそれでも、終わったと感じた。もう空襲はないと思うだけで、体の芯がとろけるような安堵(あんど)を覚えたという。終戦の日、どこで何を思ったか、百人に百の話があった▼各人に語るべきものがある大震災も、時代を画す共通体験に違いない。すべきことが山とあるのは敗戦時と同じだが、私たちに高揚はない。虚脱の暇(いとま)もない。津波、原発にとどまらず、日本は複合的な不全の中にある▼ひと声で動く世でもなし、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、不全の理由を一つずつ取り除いていくほかない。より生きやすい国を目ざして、まずは荒れ放題の政治と財政から手をつけたい▼NHK放送博物館の「玉音盤」は窒素ガスの中で眠る。今に残る音源は、傷む前のレコード盤から占領軍が複製したものだ。米国は「多くの命を救った放送」に価値を認めた。生かされた人々は驚異の復興を成し遂げる。もう一度できないはずがない。
読売新聞
編集手帳
一升瓶の中の玄米を棒でザクザクと搗(つ)く。戦時中や終戦直後の映像に見る苦労を体験してみた。この単調な作業を何時間続けて、配給米を白米にしたのだろう◆拝んで分けてもらった屑(くず)イモを詰めたという、リュックと風呂敷包みも抱えてみた。合わせて5貫(約19キロ)。主婦の買い出し体験記から再現したそうだ。担げることは担げるが、遠方まで持ち帰る自信はない◆靖国神社に近い東京・九段の「昭和館」で、〈戦後復興までの道のり/配給制度と人々の暮らし〉と題した特別展を開催中だ。順路の最後に、必需品が手に入らぬ状況の大変さを、わずかながら身をもって味わえる◆昭和26年に電力会社が貼り出したポスターもあった。週に2~3日の計画停電を行う、との告知である。見る人の多くが〈戦中・戦後〉の展示物の一つ一つを〈災中・災後〉と引き比べることだろう。今回の大震災をも凌(しの)ぐ苦境を、日本人は乗り越えてきたのだ――そう思うと勇気づけられる◆あすは終戦の日。神社や寺に赴き、〈この災厄も必ず乗り越えてみせます〉と胸の中で誓いつつ、苦難に耐えた世代に手を合わせたい。
毎日新聞
余録:あす終戦記念日
「五時から部会があったが、出席者は少なかった。そのあと薄暮の町を歩いてみる。街はひっそりと焼けあとだけがどこまでも拡(ひろ)がっている。何年かぶりで散歩といった歩き方をする。ゆうべ京都で見た下弦の月が焼土の上にかかっている」▲これは66年前の8月15日、当時毎日新聞大阪本社に勤めていた作家、井上靖の回想である。この時までに彼は「玉音ラジオを拝して」という社会面のトップを書き終え、街の様子の雑感2本を出稿していた。だが、歴史的一日の新聞社の夕刻とは思えぬ静けさが漂う▲「戦ひに果てしわが子も聴けよかし かなしき詔旨(みこと)くだし賜(た)ぶなり」。これは同じ日に詠まれた釈迢空(しゃくちょうくう)の歌である。途方もない数の人々の死、焦土と化した街々、今までの信念を打ち砕く破局に直面した無力感や虚脱。多くの日本人がそれらを涙で表した日だった▲まさか目前の惨禍に同じような無力感を抱くとは、ほんの半年前は思いもしなかった今日の日本人だ。そして今、廃虚となった街々、多くの死者や不明者と残された肉親の悲しみ、避難したままの人々、疎開した子どもたち--あの夏を思わせるあすは終戦記念日だ▲破局はなぜ防げなかったのか。この66年間、繰り返し問い直してきた日本人だ。今年より後は、津波と原発の惨害は防げなかったのかとの問いもそれに重ねられる。もたらされた災禍をどう乗り越えて、何を学び伝えるのか。「震災後」という時代を私たちは生きる▲「この夜も宿直室に眠ったが、眠りは浅く、ひどく寝苦しかった」。先の井上靖の文はこう結ぶ。その「戦後」は翌朝から始まったといってよかろう。
日本経済新聞
春秋
大災害の後には、人々の新たなつながりが生まれる。地震、大風、テロなどに襲われた町で何が起きたかを調べ、そう結論づけた研究書が米国の「災害ユートピア」だ。昨年末に日本語訳が出版され、3月の大震災で注目を集めている。
▼食材を持ち寄っての炊き出し。信号の消えた夜の交差点では自主的に交通整理。各地から集まるボランティア。一般の家庭による被災者の受け入れ。ふだんは競争に明け暮れる人々も、パニックに陥らず、助け合い、食べ物を分けるなど「無数の利他的な行為」が見られたと、ノンフィクション作家の著者は記す。
▼本に登場するのは米国を中心に中南米、欧州などの事例だが、東日本大震災に見舞われた日本も例外ではなかった。あの日から5カ月余り。人々が支え合い、支援の若者が泥かきに汗を流す。その一方でがれき処理や復興の全体像づくりなど、歯がゆく感じる部分も多い。頑張る民、もたつく政・官の差が際立つ。
▼大災害は政変の引き金にもなる、と著者。メキシコでは地震が一党支配を揺さぶり、チェルノブイリ事故はソ連を消滅させ、大型ハリケーンはブッシュ政権の支持率を下げた。政府の無能ぶりや秘密主義への怒り、情報公開の進展の結果だ。日本でも間もなく首相が退陣する。果たしてトップ1人の交代で済むか。
産経新聞
産経抄
昭和20年8月14日、つまり終戦の日の前日、東郷茂徳外相はアジア各地駐在の外交機関あてに暗号の緊急電を発した。日本の敗戦で、大東亜会議に参加した親日国の要人は厳しい立場に置かれる。もし望むなら日本への「移行」に便宜をはかれとの内容だった。
▼「敗戦国日本に呼び寄せたあとの対策や見通しがあったとは思われないが…日本なりに誠意を示したのであろう」。親日政権のひとつ、汪兆銘政権を追った『我は苦難の道を行く』の中で上坂冬子さんはそう書いている。確かに敗戦前夜の国とは思えないような「気遣い」である。
▼「亡命」を打診されたひとりが中国・南京政府の陳公博代理主席だった。汪兆銘亡き後、同政府を率いていた。陳主席は当初、申し出を断る。だが自分が南京に残れば蒋介石軍と衝突が起き市民に犠牲者が出ると判断、25日に日本へ向かうことになる。
▼一行7人の引導兼警護役を任されたのが小川哲雄陸軍主計中尉だった。拓殖大を卒業、中国語に堪能で南京政府の軍事顧問などをつとめていたからだ。南京から飛行機で青島に向かうと見せかけ、海を渡り一気に鳥取県米子の空港に着陸、「亡命」は成功する。
▼その後も小川中尉らの努力で京都に入り、金閣寺に潜伏する。だが戦勝国側の圧力の前に、日本政府による保護には限界があった。中国・重慶政府の「帰国命令」には抗しきれず、陳主席は10月初めに帰国、翌年銃殺刑に処せられる。
▼敗戦国が亡命を受け入れるなどしょせん無理という見方もあるだろう。だが国も我が身もどうなるかわからない中で誠心誠意、他国の要人のために働いた日本人がいた。そのことは誇りとして語り継いでいきたいものである。
中日新聞
中日春秋
撮影現場では泣かないと決めていた巨匠も、クランクアップの後、弁当を食べていると、胸がいっぱいになった。豪華ではないおかずが涙で曇り、見えなくなったという
▼九十九歳の新藤兼人監督にとって「最後の作品」となる『一枚のハガキ』の公開が始まった。立ち見客も出る映画には、三十二歳で召集された新藤さんの戦争体験が直接、反映されている
▼ともに応召した中年の新兵百人のうち、輸送船でフィリピンに向かった六十人は米潜水艦の攻撃で海に沈んだ。三十四人は潜水艦や海防艦で、戦死した可能性が高いという
▼内地に配属され、生き残った六人の一人が新藤さんだった。上官が引いたクジの行き先に、兵士とその家族の運命が無情にも振り分けられたのだ。九十四人の魂を背負って生きた戦後だった。フィリピン行きが決まり、死を覚悟した戦友が新藤さんに見せたのは、妻から届いた愛情のこもったはがきだ。その文面を忘れられず、最後の映画のテーマになった
▼描きたかったのは、将官や参謀らが見た戦争ではなく、末端の二等兵が見た戦争だった。「私が見た戦争を映画にしてからじゃないと死ねないと思った」と新藤さんは語る
▼引き裂かれた家族の無念さと、どんな苦難も乗り越える人間の強さが描かれた作品は、東日本大震災の発生から初めて八月十五日を迎える今、なおさら心に響く。