「名君」 の思想: 細井平洲の思想と学問
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この文献は、江戸時代中期の儒学者である細井平洲の思想に焦点を当てています。彼の儒学説である「道説」を通じて、彼が考える「名君」像と、君主が民衆を教化する役割について考察しています。また、彼の学問が実践的な人心教化に重点を置き、既存の多様な学説を包括的に捉える「折衷学」としての特性についても分析しています。総じて、平洲の思想が当時の藩政改革における強力な指導理念として、君主と民衆双方に影響を与えたことが論じられています。
Q 細井平洲は儒学と藩政改革をどのように結びつけ、その思想的基盤は何か。
A 細井平洲は、儒学を藩政改革と深く結びつけ、その思想的基盤は彼の「道説」を中心に構成されていました。
儒学と藩政改革の結びつき 細井平洲の思想では、学問(儒学)は現実の政治や社会の問題を直接的に扱うものとされ、教育の問題もそれによって提起される現象であると捉えられていました。彼は、儒学と藩政改革、そして教育を自らの問題として思想を構成しており、「名君」と称される藩主たちの改革指導にその思想が大きく影響を与えました。
• 「名君」の教育と藩政指導への貢献: 平洲は、米沢藩の上杉治憲(鷹山公)の少年期から生涯にわたる師として、治憲の藩政指導や藩校興譲館の設立に尽力しました。また、尾張藩の徳川宗睦の藩政においても、藩校明倫堂の再興や庶民教化活動を通して、後半生を捧げました。その他、多くの藩主たちとも師弟関係にあり、彼の思想は「名君」たちから高く評価され、藩政改革の指導理念として機能しました。
• 学問の目的は人心教化と藩の利益: 平洲にとって学問の目的は、「徳を成して民を取り飼ふ」ことにあり、人心教化に役立たない学問には価値がないとされました。学問は「御国(藩)の御為」となるべき教化であり、藩校設立の本意も「御先祖様よりの風俗を失ひ不申、万人安堵仕候様に被遊度」という藩政の目的の中に明確に位置づけられました。
• 学問の政治的手段としての位置づけ(折衷学): 彼は学派や学説の内容よりも、その学問がいかに人々を教化し、国政に貢献できるかを重視しました。学問はそれ自体が目的ではなく、彼の道と同様に、政治のための手段と見なされました。この考え方から、既存の多様な学派学説に対して寛容な態度をとり、諸学折衷を行いました。これは、学派間の不毛な対立を批判し、教化という目的のもとに諸学を積極的に活用しようとしたものでした。
思想的基盤 平洲の思想的基盤は、彼の儒学説、特に「道説」にその核心が見られます。
• 道の根源は「天地自然」: 平洲は「道なる者は天地自然の道也。而して人の造作する所に非ざる也」と述べ、道が人間が作り出したものではなく、天地自然に根ざすものであるとしました。これは、道が聖人によって作られたとする荀子の聖人制作説を批判するものでした。
• 聖人の役割と道の具現化: 平洲によれば、道は「上古の聖王」が天地自然に依拠し、それを修めることで明らかにされたものでした。この明らかにされた道とは、人が従うべき「行為の規範」であり、「孝弟忠信、仁義恭敬」などがその具体例でした。
• 道の外在的規範性: 平洲は、道が人心を規制すべきものであると考えました。彼の道は、朱子学のように人間の内面に内在する普遍的な原理としての道とは異なり、人心にとって極めて外在的な規範でした。この外在的な道は、事実上、君主による政治の内容を構成することを意味していました。
• 愚民観と君主の役割: 平洲は、人々が自力では道を知ることができないという「愚民観」を持っていました。一般の人々は「天地の精」や「誠」といった「道心」を持つものの、それは人々には知覚不能なレベルにあるため、自らの心を克服して道心に到達することはできないとしました。そのため、「在位」(君主)が聖人の教えを「能く知」り、それを愚民に布かねばならないとしました。君主は民にとって天の体現者であり、天の権威を帯び、民を恵む存在として登場しました。
• 君主の道義的責任と「仁政」: 君主の権威は天によって保証されていましたが、それは無制限の専制を許容するものではなく、むしろ君主の天に対する責任、すなわち「安民」に対する責任の大きさを意味しました。平洲は、一国の治乱はひとえに君主の徳に懸かるとし、君主の徳の達成が全ての政治的価値実現の根本であるとしました。君主の徳は「民の手本」としての現象的・政治的な徳であり、民の安寧を保証する意味での規範と理解されました。
◦ この君主の根本性は、彼の強烈な愚民観と表裏一体の関係にありました。民は自らを律することができない愚民であるため、全面的に徳者である君主に依存せざるを得ず、ゆえに君主の「仁政」の責任は非常に重いものとされました。
◦ 君主は「率先垂範」の姿勢で自らの「誠」を示さねばならず、この「誠」が他者を感化し、民が自発的に従う理由となると考えました。
◦ 彼の仁政は、何よりも「人情」(人間の感情)に合致した政治でなければならないとされました。君主の誠実な仁政の実践を前提とすることで、庶民の心情にも訴えかけることができ、服従道徳(五倫の教え)を説くことが可能になると考えられたのです。
このように、細井平洲は儒学の教えを、君主が「天地自然」に根ざした「道」を体現し、「愚民」である庶民を「仁政」と「人心教化」を通じて安寧に導くための、政治的な実践規範として位置づけました。彼の思想は、藩政改革の指導理念として、当時の多くの人々の心を捉える力を持っていました。
Q 平洲の「名君」論は、当時の社会でいかなる役割と影響力を持ったのか。
A 細井平洲の「名君」論は、18世紀後半の幕藩制の転換期における藩政改革と藩校の発展という時代背景において、極めて重要な役割と影響力を持ちました。
平洲の思想が当時の社会で持った役割と影響力は以下の通りです。
• 藩政改革の指導理念の提示と強力な改革主体の形成
◦ 当時の藩政は、財政窮乏、階級対立の激化、支配体制内部での政治路線をめぐる対立といった危機に直面しており、改革を推進するためには、強力な改革主体の形成と政治理念の提示が不可欠でした。
◦ 平洲の「名君」論は、君主の為政に対する道義的責任を強調することで、「名君」という強力な改革主体の形成を目指しました。
◦ 「名君」とは、改革を成功に導き、顕著な治績を挙げた者であり、何よりも強力な政治改革主体であると定義されています。
◦ 平洲の思想は、米沢藩の上杉治憲や尾張藩の徳川宗睦をはじめとする多くの藩主たちに高く評価され、歓迎されました。これは、彼の思想が「名君」を基礎づける性質を持っていたことを示唆しています。
• 君主の道義的責任と「仁政」の実践の強調
◦ 平洲は、一国の治乱や万民の憂喜はひとえに君主一人の徳(君徳)にかかっていると説きました。君主は民にとって「天」の体現者であり、その権威は天に保証されていますが、これは無制限の専制を許すものではなく、むしろ君主の「天」と「民」への重い責任を意味していました。
◦ 君主は、民の「父母」であるべきであり、「天の心」を自らの心として万民に恵みを施す存在でなければならないと主張しました。
◦ 平洲にとって、君主の徳の涵養は、「世界万人目をつけてゐる」絶対の義務かつ責任であり、民に対する「手本」=規範として、その生活の安寧を保証する存在でなければなりませんでした。
◦ 彼は、君主に対して、自らが率先して実践する「率先垂範」の姿勢、すなわち**「誠」の発露**を強く求めました。君主が「誠」の心から出た行動をすれば、必ず他者を感化すると考えられました。上杉治憲が質素な生活を生涯貫いたのも、平洲の教えの実践であり、臣民に自身の「誠」を示すことに大きな意味がありました。
◦ 君主の仁政とは、何よりも**「人情」に合致した政治**でなければならないとされ、民の自発的な服従を期待するために不可欠なものとされました。
• 愚民観に基づく庶民教化と支配秩序の維持
◦ 平洲は、当時の民を**自力では道を知りえず、自己を律することのできない「愚民」**とみなしていました。
◦ この徹底した愚民観は、君主の仁政の責任をより重くする根拠となりました。民は君主の「あしらいによってどのようにもなる」存在であるため、君主は徹底した自己規律が求められました。
◦ 民が「愚民」である以上、君主は「聖人」の教えを民に布教する「在位」(君主)の介在が必要不可欠であるとされました。
◦ 平洲は、君主によるこうした愚民教化こそが「道の実践であり、為政の内実」であると考えました。彼の考える為政はほとんど道徳教化に尽きるものであり、道徳は常に政治的意味合いを帯びていました。
◦ 彼の庶民教化活動は、米沢や尾張で大々的に行われ、数多くの聴衆を集め、彼らの心情を捉えることに成功しました。聴衆は平洲を「如来様」と拝み、感涙する者もいたと記録されています。
◦ これは、平洲の教えが、君主の誠実な仁政の実践を前提とし、庶民の心情を論理に組み込んで説かれたため、庶民に真実性をもって迫り、説得力を発揮したことによるものです。
◦ 一方で、この徳治政治は、必ずしも個々の人間の内面に普遍的基礎を持つものではなく、「天-聖人-君主」という超越的権威のもとで上から下される性質のものであったため、被治者への服従道徳や身分制秩序への順従を説くという、支配秩序維持のための秩序道徳の強要という側面も持ち合わせていました。
• 学問(儒学)の政治への組み込みと「実学」の推進
◦ 平洲の学問は、その目的が人心教化に限定され、藩の「御為」になるべきものとされました。これは、学問が知的探求を放棄する一方で、既存の多彩な学派・学説に対し寛容な態度を導きました。
◦ 彼は、学問の価値を、学派や学説の内容ではなく、いかに人を教化し、国政に資することができるかという実践的な有用性に見出しました。彼の「折衷学」は、政治という至上の目的の前に諸学の権威を相対化し、不毛な学派対立を批判しつつ、教化という目的のために諸学を積極的に活用しようとするものでした。
◦ このように、平洲の学問は、政治や社会の現実に即した「実学」としての儒学であり、18世紀後半以降の藩校の増加・発展の一環として、現実の多くの人間を動かす力を獲得し始めた現象と見なすことができます。
平洲の「名君」論は、封建支配体制の危機において、君主の権威を「天」にまで高め、支配への批判を封じつつ、被治者に絶対的な服従を強要する再編強化の思想としての側面を持つ一方、君主には民への深い責任と「仁政」の実践を強く求めることで、庶民の心情をも捉え、当時の社会に深く浸透する影響力を持ったと言えます。