【奥平家解説】長篠城を守り抜き、徳川家康の娘婿家系第1号へ!江戸時代は大問題の連続!?徳川家臣 奥平家総解説
提供されたYouTubeの動画は、奥平家の歴史に焦点を当てています。具体的には、徳川家康の娘婿となった奥平信昌を初代とし、彼の子孫が歩んだ道のりを詳細に解説しています。動画では、奥平家が戦乱の時代をいかに生き抜き、徳川家との縁組を通じて地位を確立していったか、そして江戸時代における彼らの領地変遷や内部の争い、さらには幕末における福沢諭吉との関連性までが語られています。この解説は、奥平家の興隆から明治維新に至るまでの、多岐にわたる重要な出来事や人物に触れています。
Q 奥平家は徳川家との関係性をどのように変化させ、その過程でどのような課題に直面しましたか?
A 奥平家は、徳川家との関係性を大きく変化させ、その過程で様々な課題に直面しました。
徳川家との関係性の変化
• 初期の従属と離反、そして再帰属
◦ 奥平家は元々、今川義元に従属していましたが、桶狭間の戦いで義元が敗死すると、1564年に奥平貞勝・貞能(さだよし)父子は今川氏真から離反し、徳川家康に属しました。
◦ しかし、武田家の勢力拡大により、奥平家は武田に属することを余儀なくされ、徳川家を一時離れています。この際、奥平貞能の次男である千丸や、奥平貞友の娘でお貞能の妻であったおふうが武田家の人質となりました。
◦ 武田信玄の死去後、奥平貞能は徳川家への帰属を画策しました。徳川家康は奥平家を重要な三河の国衆と見なし、娘の亀姫を奥平貞昌(後の信昌)に嫁がせることを約束するなど、多くの優遇措置を提示し、奥平貞能は徳川家に再帰属しました。
• 血縁関係による親族化と地位向上
◦ 1575年の長篠の戦いでは、奥平貞昌が長篠城を守り抜き、奥平家は武田軍を相手に大いに活躍しました。この功績により、貞昌は織田信長から「信」の字を与えられ、「奥平信昌」と改名しました。
◦ 1576年には、約束通り家康の長女である亀姫が信昌に嫁ぎました。これにより、信昌は「家康の娘婿第1号」となり、奥平家は徳川家の親類として、その立場を大きく高めました。この縁は非常に強力な効力を持っていました。
• 関ヶ原の戦い後の飛躍と親族としての厚遇
◦ 関ヶ原の戦いの後、奥平信昌は京都所司代を務め、その功績により上野小幡3万石から美濃加納10万石に加増されました。
◦ さらに、信昌の長男家昌も下野宇都宮10万石を拝領し、奥平一門全体で20万石以上を領する大名となりました。これは、奥平家が徳川家中で家臣団の上位に食い込む重要な親族としての地位を確立したことを示しています。
◦ 家昌は家康からの偏諱(へんき)を受け、徳川家の一門親族として特別な扱いを受けました。
直面した課題
奥平家は徳川親族という立場でありながらも、江戸時代を通じて様々な困難に直面しました。
• 人質処刑の悲劇
◦ 奥平家が武田家から徳川家へ再帰属した際、武田家の人質となっていた奥平貞能の次男・千丸や、貞能の妻・おふうが三河鳳来寺で処刑されました。これは、奥平家が徳川家への忠誠を示すために払った大きな犠牲であり、その後の家の進む茨の道を象徴する出来事でした。
• 当主の早世と幼少での家督相続
◦ 信昌の長男・家昌は、父に先立ち38歳で死去しました。その結果、家昌の嫡男である忠昌がわずか7歳で家督を相続することとなりました。
• 領地転封と亀姫の怒り
◦ 1619年、幼少の忠昌は、北関東の要衝である宇都宮11万石から下総古河11万石への転封を命じられました。これは幼少の忠昌には宇都宮が重すぎるとの判断でしたが、家督継承から5年しか経っておらず不自然さも残りました。
◦ この転封に対し、家康の娘であり、忠昌の祖母にあたる亀姫は激怒しました。特に、宇都宮に新しく入った本多正純が、亀姫の娘の嫁ぎ先である大久保家の失脚に関与していたとされるため、亀姫の怒りに油を注ぐ形となりました。亀姫は転封時の奥平家の資材持ち出しを黙認するなど、強い態度を示しました。結果的に、本多正純は突然改易され、忠昌は宇都宮に11万石で戻ることができました。
• 宇都宮騒動と減封・転封
◦ 忠昌の跡を継いだ正能(まさよし)の代に、大きな問題が発生しました。
◦ 殉死事件: 正能の治世下で、先代忠昌に寵愛されていた小姓の杉浦門兵衛が、禁じられていた殉死を行いました。
◦ 重臣同士の斬り合い: さらに、先代忠昌の法要中に、重臣である奥平蔵人(黒屋奥平家)と奥平隼人(中金奥平家)の間で斬り合いが発生し、死者も出ました。
◦ これらの事件により、宇都宮奥平家は11万石から2万石を減封され、出羽山形藩9万石へ転封を命じられました。他藩であれば改易となるところでしたが、家康の血筋を引き、累代の功績が絶大であったため、この処分で済まされました。
◦ この騒動の結果、追放された奥平蔵人の子供・源八による奥平隼人への仇討ちが発生し、江戸の街を巻き込んだ大事件となりました。最終的に源八は仇討ちを果たし、井伊直澄の計らいで許され、井伊家に召し抱えられるという寛大な処置を受けました。
• 度重なる転封と当主の早世
◦ 山形藩への転封後も、奥平家は短期間で丹後宮津藩(1697年)へ、そして豊前中津藩(1717年)へと度重なる転封を経験しました。
◦ 1800年代前半には、奥平家の当主が相次いで若くして死去する事態が続きました(正雄24歳、正載24歳、昌高30歳)。これにより、養子を迎えることが増え、血筋の維持に苦労しました。
• 血筋の変化と新たな繋がり
◦ 正雄に嗣子がなかったため、薩摩藩主・島津重豪(しげひで)の子である正隆を養子に迎えました。これにより、奥平家は以降、島津家の男系血筋を引くことになりました。しかし、この正隆の祖母は、長篠の戦いの際に武田家の人質となり処刑されたおふうの妹・おタツ(家康の異母妹・久松家松平定勝に嫁ぎ、松平定行を産んだ)の子孫にあたるため、全く無関係ではありませんでした。
◦ この奥平正隆は蘭学に深く傾倒した大名であり、中津藩は蘭学の発展に貢献しました。また、幕末には福澤諭吉が中津藩下級藩士の家に誕生し、奥平家の蘭学奨励の土壌が福澤の学びに影響を与えたとされています。
• 幕末の対応
◦ 幕末期には、徳川家臣の中でも重鎮の一角であった奥平家でしたが、西国の地理的状況から、体制がすでに決していた新政府に恭順することを決定。徳川慶喜の助命嘆願書を新政府に提出しました。
◦ また、藩主の正本は伊達宗城の子である正邁を養子に迎えて家督を譲り、中津藩兵は新政府軍として戊辰戦争に出兵し、会津藩松平家と戦うことになりました。これにより、中津藩は戦火に巻き込まれることなく明治維新を迎えました。
このように、奥平家は徳川家との血縁関係を築き、その地位を飛躍的に高めましたが、その過程で内部の対立や幕府の政策、当主の早世など、多くの困難に直面しました。しかし、家康の血筋という背景が、改易などの最悪の事態を免れる要因ともなりました。
Q 奥平家の歴代当主は、それぞれの時代においてどのように藩政を確立・維持しましたか?
A 奥平家は、その歴代当主がそれぞれの時代において、徳川家との強い結びつきや、時の政治状況に応じた戦略を通じて藩政を確立・維持してきました。
以下に、奥平家の主要な当主が藩政の確立・維持にどのように取り組んだかを解説します。
• 奥平信昌(初代藩主)
◦ 信昌は、長篠城の戦いにおいて、兵500人と多くの鉄砲を用いて武田軍の猛攻に耐え抜き、その武勇と防衛能力を示しました。これは、困難な状況下での領地の軍事的「維持」を象徴する出来事です。
◦ 戦後、織田信長から「信」の字を、そして徳川家康の長女亀姫を正室に迎えることで、徳川家中の親族としての揺るぎない地位を「確立」しました。この血縁関係は、その後の奥平家の安泰と発展の強力な基盤となりました。
◦ 新城を築いて本拠を移し、領国統治の拠点を整備しました。
◦ 関ヶ原の戦いの後には、上野小幡3万石から大幅に加増され、美濃加納10万石の藩主となりました。加納城は家康自らが縄張りを行い築城させた堅固な城であり、この重要拠点の拝領は、奥平家が徳川政権下で重要な位置を占めるようになったことを示し、領国規模の「確立」に貢献しました。
◦ 京都所司代として京の治安維持を担うなど、幕府要職を務めることで、徳川政権における信頼を深め、藩の政治的立場を「維持」しました。
◦ 家督を三男に譲る際も、長男・四男にも別々に領地を与え、奥平一門全体で20万石以上を領する体制を築き、一門としての勢力「維持」を図りました。
• 奥平家昌(宇都宮藩主、信昌長男)
◦ 父信昌とは別に、下野宇都宮10万石を拝領し、宇都宮藩の基礎を築きました。
◦ 「七族五老」と呼ばれる一門と重臣たち12家を統率し、藩政を支える体制を「確立」しました。
• 奥平忠昌(宇都宮藩主、家昌長男)
◦ 幼少で家督を継ぎ、一時的に転封を命じられましたが、祖母亀姫の尽力もあり、後に宇都宮に11万石で戻りました。これは、徳川家との血縁関係が藩の存続を「維持」する上で極めて有効に機能した例です。
◦ 宇都宮藩奥平家の基盤を固めることに尽力しました。
• 奥平昌能(宇都宮藩主、忠昌後継)
◦ 彼の代では、殉死事件や重臣間の斬り合いといった藩内の騒動が相次ぎ、藩政は混乱に陥りました。
◦ これらの問題により、2万石の減封と山形藩への転封を命じられ、藩政の「維持」に大きな課題を抱えました。しかし、徳川家との血筋や累代の功績により改易は免れました。
• 奥平昌成(中津藩主)
◦ 幼少で家督を継ぎ、宮津藩から豊前中津藩へと転封を経験しました。
◦ 中津の地で、藩の基盤作りに取り組みました。これは新しい領地での藩政「確立」に向けた努力です。
• 奥平昌敦・奥平昌鹿(中津藩主)
◦ 昌敦は藩政改革に着手し、中津藩奥平家の基盤を固め続けました。
◦ 昌鹿もまた藩政改革に努めました。特に昌鹿は蘭学を奨励し、蘭学者前野良沢を召し抱えて医学の翻訳を行わせるなど、学術・文化面からの藩の「維持」と発展に貢献しました。
• 奥平昌高(中津藩主、養子)
◦ 島津家からの養子でありながら、父祖をしのぐ蘭学好きとして知られ、自らオランダ語を学び、デジマのオランダ商館長やシーボルトと交流しました。こうした交流は中津藩の医学の進歩につながり、藩の文化的・学術的な「維持」と発展に寄与しました。
◦ 若年で家督を継いだ藩主(昌邁)の祖父として実権を握り、家老に政務を任せることで、藩政の安定的な「維持」を図りました。この時代には福沢諭吉も中津藩から誕生しており、昌高の蘭学への傾倒が藩の教育・文化に大きな影響を与えたことがうかがえます。
• 奥平昌邁(中津藩主)
◦ 激動の幕末期において、藩を巧みに導きました。
◦ 第一次・第二次長州征討では、幕府軍として出兵や防衛の姿勢を取り、藩の役割を「維持」しました。
◦ 大政奉還後には、新政府に恭順する決断を下し、徳川慶喜の助命嘆願書を提出するなど、新時代への政治的対応を行うことで、藩の存続を「維持」しました。
◦ 最終的に養子に家督を譲り隠居し、中津藩は新政府軍として会津戦争に出兵しました。これにより、中津を戦火に巻き込まずに明治維新を迎えることに成功し、藩の安全と存続を「維持」しました。
このように、奥平家の歴代当主は、血縁による地位の確保、要職への就任、大規模な加増、新しい領地での基盤構築、藩政改革、学問・文化の奨励、そして激動期における的確な政治判断を通じて、それぞれの時代において藩政の確立と維持に努めました。
Q 奥平家は、激動の時代において家臣団や外部勢力とどのように関わり、その運命を左右しましたか?
A 奥平家は、激動の時代において家臣団や外部勢力との複雑な関わりを通じてその運命を大きく左右してきました。
外部勢力との関わりとその運命への影響:
• 戦国時代の勢力転換と徳川家への帰属
◦ 奥平家は、三河に移り住んで以降、今川氏、徳川家康の祖父である松平清康、織田氏などの大勢力に囲まれ、従属先を変えながら戦乱を生き抜きました。
◦ 1560年の桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、1564年には奥平貞勝・貞吉(貞義)父子は今川氏真から離反し、徳川家康に属することになります。
◦ その後、武田氏の勢力拡大により三河に侵攻されると、奥平家は武田氏に従属することを余儀なくされ、一時的に徳川家を離れます。この際、奥平貞吉の次男千や、貞勝の孫で貞正の妻であったおふうが人質として武田家に送られました。
◦ しかし、武田信玄の死後、貞吉は徳川家への帰属を画策し、家康は長女亀姫を奥平貞正(後の信正)に嫁がせることを約束するなど、多くの好待遇を提示して奥平家を再度徳川方に引き入れました。この奥平家の裏切りにより、武田家に人質となっていた千やおふうは処刑されてしまいますが、この決断が奥平家を徳川家臣として大きく飛躍させる転機となりました。
• 長篠の戦いと家康の娘婿家系としての確立
◦ 1575年の長篠の戦いでは、奥平貞正がわずか500人の兵で長篠城に籠城し、武田勝頼の大軍に猛攻に耐え抜きました。家臣の鳥居強右衛門が命をかけて援軍の到着を伝え、城兵の士気を保つことに成功するなど、奥平家臣団の活躍も光りました。
◦ この功績により、貞正は織田信長から「信」の字を与えられ奥平信正と改名。そして、1576年には約束通り家康の長女亀姫が信正に輿入れし、奥平信正は家康の娘婿第1号となり、徳川家の親類として絶大な効力を有する立場を確立しました。
• 江戸時代の領地替えと血縁関係の維持
◦ 関ヶ原の戦い後、奥平信正は3万石から美濃加納10万石に加増され、さらに長男家昌も下野宇都宮10万石、四男忠明も三河1万7千石を与えられ、奥平一門で20万石以上を領する大名家となりました。
◦ しかし、2代将軍徳川秀忠の時代には、家昌の跡を継いだ孫の忠昌が幼少であることを理由に、北関東の要衝である宇都宮から下総古河への転封を命じられます。これに対し、家康の娘で秀忠の姉にあたる亀姫が激怒し、その怒りの影響もあってか、転封に関与したとされる本多正純が失脚し、忠昌は宇都宮に復帰することとなりました。この出来事は、奥平家が家康の血筋を引く親族であったからこそ、厳しい処分を免れたことを示しています。
◦ その後も奥平家は、山形藩、宮津藩、そして最終的に豊前中津藩へと度々転封を経験しました。
• 幕末の対応と適応
◦ 幕末には、奥平家は西国に位置していたため動きが取りにくく、大政奉還後は新政府に恭順することを決定しました。徳川慶喜の助命嘆願書を新政府に提出し、藩主の奥平昌基は養子の伊達宗城の子供である昌邁に家督を譲り隠居。
◦ 最終的に、中津藩は新政府軍として会津戦争に出兵し、戦火に巻き込まれることなく明治維新を迎えました。これもまた、激動の時代における外部勢力との関係性を巧みに見極めた結果と言えるでしょう。
家臣団との関わりとその運命への影響:
• 初期の家臣団の役割
◦ 長篠の戦いでは、奥平貞正とその家臣500人が一丸となって城を守り抜き、鳥居強右衛門の犠牲も相まって、奥平家が徳川家中で立場を高める大きな要因となりました。
◦ 宇都宮藩の礎を築いた奥平家昌の時代には、「七族五老」と呼ばれる奥平一門と重臣たちが藩政を支え、中には戦時に奥平軍の先手を務める家もありました。
• 内部騒動と家臣団の分裂
◦ 4代将軍徳川家綱の時代に禁じられていた殉死が、3代藩主奥平忠昌の死後、寵愛を受けていた小姓の杉浦門兵衛によって行われ、藩主奥平昌義がこれを促したとされており、奥平家は「いばらの道」を進むことになります。
◦ さらに、忠昌の法要の席で、重臣である「大神(おおがみ)」の一家、黒屋奥平家の奥平蔵野城と、中奥平家の奥平播磨の間で喧嘩騒動が勃発。蔵野城が切腹に追い込まれる一方、播磨が藩主昌義の気に入っていたためすぐに処分が下されず、この藩内の騒動によって宇都宮奥平家は2万石減封の上、山形藩への転封という重い処分を受けました。通常であれば改易となるところでしたが、家康の血筋であったため許された形です。
◦ 播磨が切腹にならなかったことで、大神の夏目義満をはじめとする家臣たちが反発し出奔。蔵野城の子供である源八は、出奔した家臣たちと共に播磨への敵討ちを画策し、4年近くにわたる探索の末、江戸で播磨を討ち取ることに成功しました。この一連の騒動と敵討ちは、奥平家内部の人間関係や藩主の判断が、領地替えや家臣団の動向に直接的な影響を与えた事例と言えます。
◦ 昌義はこれらの騒動に大きく関与したまま、敵討ちの直後に死去し、その激動の4年間は奥平家にとって大きな試練となりました。
• 学問と人材の育成
◦ 奥平家が豊前中津藩に移って以降、藩主奥平昌高の時代には、蘭学者である前野良沢を家臣として抱え、蘭学を奨励しました。
◦ 幕末期には、中津藩の下級藩士の家に福沢諭吉が誕生し、蘭学を学び、海外にも渡航して慶應義塾の創設へと繋がるなど、奥平家の学問奨励の姿勢が後の日本の近代化に貢献する人材を育む土壌となりました。
このように、奥平家は戦国時代の盟主選びから始まり、家康との婚姻によって徳川親族としての地位を確立しました。しかし、その後の江戸時代には、将軍家との血縁という強みがありながらも、家臣団の争いや藩主の判断、そして幕府の意向によって度重なる転封や減封を経験しました。一方で、藩主の中には蘭学を奨励する者も現れ、福沢諭吉のような優れた人材を輩出するなど、多岐にわたる側面を持つ家系でした。