息子から父の日のプレゼントが届きました。
毎年、父の日、母の日にプレゼントを送っていただき、ありがたい限りです。
今回は全国有名ラーメン店のラーメンセットでした。
わが町にも有名ラーメン店があるが、ここまでは全国展開はしていないだろう。
移動の自粛は解除されたとはいえ、そう簡単には出かけられないので、いただいたラーメンで、各地の食の旅を楽しもう。
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(その1)にも記したように、宮城県の岩沼市に生まれた島貫兵太夫は、その後「力行会」という組織を立ち上げ、
日本人の海外渡航に取り組んだということであった。
「力行会」の活動にも興味はあるが、私の疑問はなぜ、その当時キリスト教への入信とそのような活動をする
ことになったかである。
この「島貫兵太夫伝」は、島貫の自著「力行会とは何ぞや」(1911年発行)に基づいて書かれている。
その著書によると、島貫は慶応2年(1866年)に、仙台藩士島貫資澄(すけすみ)の子として生まれている。
島貫家の系図によると、島貫家は一番古い先祖は北条執権時代の三浦大介であり、三浦家が北条に滅ぼされると
越後の長尾家に移り、会津の山中の島貫館に移り、秀吉に滅ぼされて、奥州の葛西氏の臣となり、葛西氏が
伊達氏に滅ぼされると陸前国岩沼近在に帰農したが、伊達政宗の朝鮮征伐に従軍して武士に取り立てられ、
その後、岩沼へ古内守善が封ぜられたとき、御預かりとなって岩沼に住むことになったという。そのため、
伊達家直参の藩士だということで威張っていたという。
戊辰戦争に父資澄も従軍したが、敗北に終わった。父は帰農することになったが、慣れない農業で家庭は困窮を極めた。
兵太夫は5歳で母と死別、没落した貧乏士族の子は町人、農民の子にも軽蔑されけんかをしながら育ったという。
当時小学校もできてきたが、小学校にも寺子屋にも行かせてもらえず、親戚の産婦人科医院のもとに住み込みさせてもらった。
9歳から14歳までのことだという。住み込んだ安部医院では雑務一切をやらされ、雑務が終わった夜に、先生について
「大学」「論語」「中庸」「孟子」などを勉強したという。
しかし、どうしても小学校に入りたくて、父の無断で小学校に入学、四級(下等小学最上級)に入学を許可され、猛勉強を
して首席で卒業することができたという。明治14年9月には、小川小学校の助教に発令された。
明治15年10月には岩沼小学校の初等訓導に転じた。その後宮城師範学校に入学したが、授業がやさしすぎて二か月で退学した。
島貫がキリスト教へ入信するのは岩沼小学校に勤めていたころで、当時同僚の教師の中にキリスト教の信者がおり、島貫はその信者を
「耶蘇は国賊」と言っていじめていたが、「耶蘇教を知らないでいじめるほうがありますか、いじめるくらいならよく調べてご覧なさい」
と言われ、熱心に研究してみたら全く感心してしまったという。そして、仙台で押川方義により洗礼を受けたという。
明治17年(1884年)、満18歳のことであった。
その後満17歳で植松村小学校長、増田町高等小学校の首席訓導となり、伝道も続け「東北のパウロ」といわれるまでになった。
彼の伝道熱は燃え盛り、ついに耶蘇教の本山に行き大いに研究したいと決心するに至った。
ここで、押川方義という方が出てきたが、この方はネットの検索によると、東北学院大学の創立者であり、明治期日本のキリスト教
主義教育の先駆者とされるという。また、今現在NHKBSで再放送している朝の連続テレビ小説「はね駒(はねこうま)」の
登場人物・松浪毅のモデルといわれる。この方は、1850年生まれの松山藩士の三男で、東京の開成学校には入り、その後横浜の
修文館に移ったという。
また、明治初期のキリスト教の受容については、新島襄や内村鑑三が有名であるので、その件も別の本を読んで調べてみた。
いずれ、島貫もそのような方々と交流なり、関係が生じてくるようである。
島貫は1866年生まれであるが、新島襄は1843年、上州安中藩士の長男として江戸藩邸で生まれている。
内村鑑三は1861年、高崎藩士の長男として江戸藩邸で生まれている。内村は札幌農学校に入学しているのは有名である。
その生涯も多難であり、かつよく語られているところであるが、年齢も近いだけに島貫との関わりもあったようである。
(以下その3に続く)