昨日からけさまで、検査入院で病院にいた。
1年前に手術した後の経過観察である。経過は良好ということで退院してきた。
行く前は、新型コロナウイルス感染者が増えてきていたので、先に延ばしたい気持ちがあったが、
病院から支障はない旨いわれたので、予定通り入院して検査してきた。
大きな病院なので、対策もしっかりしており問題はなかった。そこは感染症の方が入る病院ではないので、
内部は混乱していることもなく、普通に検査、診療が行われていた。
1泊であったが検査が終わるとすることがないので、ベットで本を読んできた。
以前にブログに書いた高倉健さんが書いたエッセイを買っていたので持って行った。
高倉健さんが映画の仕事をしているときにあったいろんな体験を23本のエッセイに書いていた。
初エッセイであったとのこと。本自体は1991年に発売されていたようである。
高倉健さんは映画内での人物像とは違って、やさしい気持と細やかな感性を持った人だったような気がする。
でも思いを決めたらやらなければならない一途なところもあるようだ。
表題にある「あなたに褒められたくて」はエッセイの最後にある、母の思い出についてである。
高倉さんの母親は、魚が嫌いな高倉に、何日も魚を出してだべさせようとしたそうだ。
でも高倉は食べませんでした。
小学校に入って肺の病気になり1年間休学して、安静にしていた時、本ばかり読んでいて、
国語と歴史は得意になったという。
『八甲田山』をやっていたとき、母が映画を見に行って「もっといい役やらしてもらいなさい」
「雪の中はい回っているのは、せつなくて見ていられない」といった。
高倉が離婚してからは、毎年お見合い写真みたいなものを送ってきたそうだ。
「一人になってかわいそうだ、あなたが不憫だ」と毎回書いてきたそうだ。
頑固で、優しくて、ありがたい母だったといいます。
自分が頑張って駆け続けてこれたのは、あの母に褒めてもらいたい一心だったといいます。
母が亡くなったとき、告別式に行けなかった。
後で母のお墓に対面した時、子供のころのことがグルグル駆け巡って、思い出されたといいます。
母に褒められたくて、背中に刺青入れて、返り血浴びて、さいはての『網走番外地』、『幸福の黄色いハンカチ』の
夕張炭鉱、雪の『八甲田山』。北極、南極、アラスカ、アフリカまで、三十数年駆け続けてこれました。
子を思う母の心、母を思う子の心、だれでも同じでしょう。
でも亡くなってはじめて、より深く感じられると思います。
他にもいいエッセイがたくさんありましたが、私の気に入ったのは「宛名のない絵葉書」と「善光寺詣り」でした。
「宛名のない絵葉書」は、作家の檀一雄がポルトガルの寂しい漁村サンタクルスに2年間も暮らしたことを知っていて、ポルトガルに
ロケに行った時その土地を訪ねたこと、そして2回目に撮影に行った時もその場所に行き、コルクでできた絵葉書に手紙を書いたが
宛名のない絵葉書をずっと持っていたこと、そしてそれは誰に出すはずであったか、後で思うとあこがれの女性あてに
書いていたようだという。
ロカ岬で檀一雄が詠んだ詩を口ずさむ。「落日を拾いに行かむ海の果て」
檀さんが土地の女性にあてた色紙、「時の間に過行くものぞ 我ら哀れ同学」
高倉の言葉「去りゆく夏の後ろ姿に、乾杯。」
「善光寺詣り」は、高倉の本名、小田にまつわる話。
高倉の祖先に小田宅子(いえこ)という方がいて、江戸時代に『東路日記』という紀行文を残しているという。
天保12年、筑前国から東国への旅に出て、伊勢神宮、善光寺、日光、江戸、善光寺に回って、故郷へ帰ってきたという。
さらに鎌倉にお墓を買った話から、小田家の祖先が、鎌倉時代の北条家の一族であり、鎌倉幕府滅亡の時にそこにいたことが
わかってきたことであった。当主は自害したが、その一族は西へ、西へ逃れ、山口県の大内氏に仕え、さらに九州に渡り
北九州で小松屋として繁盛したという。その後黒田家から名字帯刀を許され小田姓を名乗ることになったという。
1年前に手術した後の経過観察である。経過は良好ということで退院してきた。
行く前は、新型コロナウイルス感染者が増えてきていたので、先に延ばしたい気持ちがあったが、
病院から支障はない旨いわれたので、予定通り入院して検査してきた。
大きな病院なので、対策もしっかりしており問題はなかった。そこは感染症の方が入る病院ではないので、
内部は混乱していることもなく、普通に検査、診療が行われていた。
1泊であったが検査が終わるとすることがないので、ベットで本を読んできた。
以前にブログに書いた高倉健さんが書いたエッセイを買っていたので持って行った。
高倉健さんが映画の仕事をしているときにあったいろんな体験を23本のエッセイに書いていた。
初エッセイであったとのこと。本自体は1991年に発売されていたようである。
高倉健さんは映画内での人物像とは違って、やさしい気持と細やかな感性を持った人だったような気がする。
でも思いを決めたらやらなければならない一途なところもあるようだ。
表題にある「あなたに褒められたくて」はエッセイの最後にある、母の思い出についてである。
高倉さんの母親は、魚が嫌いな高倉に、何日も魚を出してだべさせようとしたそうだ。
でも高倉は食べませんでした。
小学校に入って肺の病気になり1年間休学して、安静にしていた時、本ばかり読んでいて、
国語と歴史は得意になったという。
『八甲田山』をやっていたとき、母が映画を見に行って「もっといい役やらしてもらいなさい」
「雪の中はい回っているのは、せつなくて見ていられない」といった。
高倉が離婚してからは、毎年お見合い写真みたいなものを送ってきたそうだ。
「一人になってかわいそうだ、あなたが不憫だ」と毎回書いてきたそうだ。
頑固で、優しくて、ありがたい母だったといいます。
自分が頑張って駆け続けてこれたのは、あの母に褒めてもらいたい一心だったといいます。
母が亡くなったとき、告別式に行けなかった。
後で母のお墓に対面した時、子供のころのことがグルグル駆け巡って、思い出されたといいます。
母に褒められたくて、背中に刺青入れて、返り血浴びて、さいはての『網走番外地』、『幸福の黄色いハンカチ』の
夕張炭鉱、雪の『八甲田山』。北極、南極、アラスカ、アフリカまで、三十数年駆け続けてこれました。
子を思う母の心、母を思う子の心、だれでも同じでしょう。
でも亡くなってはじめて、より深く感じられると思います。
他にもいいエッセイがたくさんありましたが、私の気に入ったのは「宛名のない絵葉書」と「善光寺詣り」でした。
「宛名のない絵葉書」は、作家の檀一雄がポルトガルの寂しい漁村サンタクルスに2年間も暮らしたことを知っていて、ポルトガルに
ロケに行った時その土地を訪ねたこと、そして2回目に撮影に行った時もその場所に行き、コルクでできた絵葉書に手紙を書いたが
宛名のない絵葉書をずっと持っていたこと、そしてそれは誰に出すはずであったか、後で思うとあこがれの女性あてに
書いていたようだという。
ロカ岬で檀一雄が詠んだ詩を口ずさむ。「落日を拾いに行かむ海の果て」
檀さんが土地の女性にあてた色紙、「時の間に過行くものぞ 我ら哀れ同学」
高倉の言葉「去りゆく夏の後ろ姿に、乾杯。」
「善光寺詣り」は、高倉の本名、小田にまつわる話。
高倉の祖先に小田宅子(いえこ)という方がいて、江戸時代に『東路日記』という紀行文を残しているという。
天保12年、筑前国から東国への旅に出て、伊勢神宮、善光寺、日光、江戸、善光寺に回って、故郷へ帰ってきたという。
さらに鎌倉にお墓を買った話から、小田家の祖先が、鎌倉時代の北条家の一族であり、鎌倉幕府滅亡の時にそこにいたことが
わかってきたことであった。当主は自害したが、その一族は西へ、西へ逃れ、山口県の大内氏に仕え、さらに九州に渡り
北九州で小松屋として繁盛したという。その後黒田家から名字帯刀を許され小田姓を名乗ることになったという。