運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

窓の外を見よ

2010年08月18日 17時40分36秒 | Weblog
毎日観ていたい、いくらでもインスパイアされる・・・写真美術館のオノデラユキ展。
『真珠のつくりかた』という作品を、さらにさらにみていると、この世界の人々の営みの、無数の行為や心持ちの中の、ほんのわずかの瞬間だけ、現れる、混じりけのない、無私の気持ちや、命がけの愛や、本気の献身や・・・そんなものが、ちょっとずつ、あこや貝の中で真珠になっていくように、この上空に、白く光る粒となっていくのかな、なんて、ふと思う。
マザー・テレサのものであろうが、このへんのおじいちゃんの、ちょっとした、一世一代の本気だろうが、みんないっしょくたになって、やっと一粒ができあがり、いつか、その粒が、御木本のドキュメンタリーで見たように、光具合や、色の純度や、形なんかを、選別されたりするのかな。
いったい、これまで、この地上でいくつの真珠ができただろうか・・・。
私は、そのパウダーにも満たない、何億万分の一の白を、構成することがいつかあるんだろうか。


『窓の外をみよ』という題の、まるで、窓をあけたら夜の闇に未確認飛行物体が浮かんでいたかのような、灯りににじむ小さな家の発光体は、昔のモノクロの映画時代『素晴らしき哉人生』のオープニングの、ほほえましい、小道具がみえみえの、特撮の、天国からみた地球みたいでもある。

展示場から出ると、カフェのあるロビーでは天井からスクリーンがかかり、ジョン・ケージのドキュメンタリーフィルムが上映されている。

この、モノクロの中の光と影、そして、彼の作品の、生きている、動いている不思議な音とが、
さっきまで見てきた写真の世界とあいまって、いろんなことを喚起してくれる。

そうか、光をチューニングするのと、音楽を作るのは同じだ。

このごろ、思いがけないときに、いろんななぞが解けていく。

ギフト

2010年08月14日 00時00分01秒 | Weblog
ロードショーシフトのあといったん恵比寿を抜けて赤坂で用事を済ませた。

今日から、ウイーンフィルのフィルムコンサートがガーデンシネマ前のテラスで始まるのを知っていたので、再度、恵比寿に戻ろうか、でも、オケのためだったらわざわざいいか、なんて、迷いながら歩いていたら、突然目の前に素晴らしくスラリと長い脚のジーンズ姿の男性がオーラを発していて、見ればご家族連れの、指揮者の大友直人さんだった。

こんなところで、いま、指揮者と出遭うということは、やはり恵比寿に戻ってみるかと、ちょうどおみやげにいただいたプリンを、夜のシフトに入っている仲間に差し入れできるし、と戻ってみたら、黒山の人だかりの会場の上のスクリーンには、なんと鮮やかな黄色のブラウス姿でモーツアルトを弾く、内田光子のドアップと、あのピアノの演奏が!!
むさぼるように、聴き、体内に浸みてくる名演を、ライトアップされた木々の葉のそよぎの中で
味わった。

ギフトだわ。。。夜空をみて思った。

チャンス

2010年08月12日 09時49分35秒 | Weblog
・・・どこまでも自分のことしか考えずに勝手を言ってくるばかりで、
   いよいよ本当に怒ろう・・・そう思ったとき、ふと、あ、これをゆるせるか チャンス。

   天国にいたいか地獄にいたいか、なあんだ、ただのチャンス。 

ムーンライト・シャドウ

2010年08月12日 02時18分26秒 | Weblog
1989年、どこもかしこも、華やかなカバーの、よしもとばなな作品が積まれ氾濫していた。
『TUGUMI』と『キッチン』・・その氾濫ぶりに辟易して、意地でも買うものか、と思っていたが
泊りがけで遊びにきていた従妹がもってきていた一冊を、彼女がお風呂に入っているあいだに、
そっとぱらぱら見て、いっきに引き込まれ読んでしまったものだ。

あの、懐かしい『キッチン』が、真紅の、シンプルな装丁で文庫になっているので、思わず買った。

海燕で新人賞をとったという『ムーンライト・シャドウ』も収録されている。

あの頃、この作品に出てくる、うらら、という女性のように、いつかは、さりげなくだれかの悲しみをすこしだけ紛らせてあげられるような、実力をつけたいと思った。

あれから20年以上も経って、実力どころか、まだ逆に、だれかのあたたかい好意のかたじけなさにじーんと泣いたりするほうの自分でいることが不甲斐ない。

でも、あの、うららがやっていた、相手の顔を思い浮かべると電話番号が浮かぶということは、修行したわけではないけれど、できるようになった。
先日も浦和にかつて住んでいた大学時代の友人の話をしていたら、もう何十年もかけていないのにちゃんと番号が頭の中に出てきてびっくりした。

記憶はファイルと同じ、脳のどこかにはしまわれているのだろう。
検索をかけさえすれば、その方法さえわかりさえすれば。

思い出すとは、思いによってデータを出す、ということなのかな。
思い、がなければ、呼び出せない、出てこない。対象への自分なりの愛の瞬間芸だって思う。
よく、人の顔も名前も覚えないことを自慢のように言う人がいるが、それは
どういおうと、対象に思いも関心もないからだ。自分にしか、自分の興味のあることしか人は
覚えない。

赤い文庫になった『キッチン』が呼び覚ますたくさんのファイルを楽しみながら、じっくり読み返してみよう。

真珠のつくり方 オノデラユキ展 そして・・・

2010年08月08日 10時26分46秒 | Weblog
写真美術館での待ち時間で、オノデラユキ展を観た。

・・・すんばらしかった!
いろんなスタイルでの顔なしの写真たちの、その、顔なしの身体だったり、そこを使っただろう家具や椅子だったり、シルエットだったりのほうが、よほど、その個性と存在ともっている空気をくっきりと浮かび上がらせている。

人とは、エネルギーの集約なんだってあらためてわかった。

青空を背景の古着には、着ていた子供や女性のエネルギーがある。

真珠のつくりかた、という、お月様が浮かびあがったような、モノクロ写真はビー玉を使って.

夜の中に浮かぶ、窓の明りと家のシルエット。

行方不明になった旅行者が行ったにちがいないと彼女が考えた、地球の裏側の土地の草むら。

ぼおっと、あるいは、懐かしく遠く、撮られた被写体たちが生きている。

私は、今度生まれたら、白熊の隣にあるシルエットみたいな女性になりたい。


そう、本気で願った、素敵な、交流。

奇しくも、今日は、星野道夫の命日だ。

ミチオもあんなふうに、光る粒子になって、ときには形に集まり、熊と踊ったりしているのだろうか。


合掌。