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コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

箱根関所(神奈川県足柄下郡箱根町)

2013-05-11 19:05:37 | その他

2013年4月28日 神奈川県

箱根関所

神奈川県足柄下郡箱根町箱根

箱根の関所は1619年(元和5)、徳川幕府によって西国に対する江戸の防備と治安を守るために設けられた。江戸に在住の諸藩の大名や奥方など、女性の江戸退出に対する取締りが厳しく行われた。2007年春、大番所・上番休息所、京口御門、厩[うまや]が完全復元され、調度品などが公開されている。

 

▲江戸口門

▲足軽番所▼

▲獄屋(ごくや)

▲遠見番所

箱根関所で唯一の二階建ての建物です。四方に開かれた大きな窓から二名の足軽が昼夜を問わず交代で、芦ノ湖や街道沿いを見張っていました。

 

▲厩
 

▼大番所 上番休息所
 

▲湯殿

 ▼大番所 

関所の一番主要な建物です。二棟が継がれている建物で、街道側が大番所、湖側が上番休息所と呼ばれています。共に栩葺(とちぶき)と言われるうすく割いた杉板を重ねた屋根を持ち、また外観は、渋墨で塗られた黒い建物です。

▲人見女▼
 

▲定番人▼
 

▲御制札場

箱根関所の役割が記載された高札が掲げられています。板葺(いたぶき)の屋根や渋墨が塗りこまれており、威厳を感じさせる建物です。

▲外繋:足軽番所と京口御門の間にあり、旅人の馬をつなぎ止めるために、頑丈な太い柱と桁を組んだものです。

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六部地蔵(岐阜県不破郡関ケ原町野上)~旧中山道を歩く(19回目)

2013-05-11 14:45:22 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<加納宿(岐阜駅)~関ヶ原駅
2013年4月20日 19回目

六部地蔵

岐阜県不破郡関ケ原町野上

六部とは「六十六部」の略で、全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修業している「人」ということで、厨子を背負って読経しつつ行脚中の行者が「宝暦十一年頃」(1761年)この地で亡くなられたので里人が祠を建てお祀りされたといわれております。この六部地蔵さんは、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と読まれているように、痛みのひどい病気をなおすことで名を知られています。 関ヶ原町

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山内一豊陣跡~旧中山道を歩く(19回目)

2013-05-11 14:12:54 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<加納宿(岐阜駅)~関ヶ原駅
2013年4月20日 19回目

山内一豊陣跡

 

慶長5年(1600年)、徳川家康に従い会津の上杉景勝討伐の従軍した一豊は、関ケ原の戦いで西上に際し、居城の掛川城を明け渡しての出陣となりました。岐阜・大垣の兵と戦い、ここ野上に入ると、一豊他八将は一里塚より桃配山までの間の中山道左右に並列し、南宮山の敵に備えました。その後、家康の進旗にあたり、南宮山の隊に東軍攻撃の形勢がないため、使番による家康の命令を受け、山内隊は有馬、蜂須賀の隊と共に芝井の地まで前進して戦いました。戦後、妻の内助の功もあって、土佐の国主となっています。関ヶ原町

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野上「七つ井戸」~旧中山道を歩く(19回目)

2013-05-11 12:08:26 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<加納宿(岐阜駅)~関ヶ原駅
2013年4月20日 19回目

野上「七つ井戸」

 ここ野上は、中山道の垂井宿・関ケ原宿の間の宿でした。水不足に悩むこの地の人々は、江戸時代の頃から僅かな地下水を取得して多目的に利用していました。街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれ、旅人にとっては、喉を潤し、疲れを癒す格好の場所だった事でしょう。近年は、水道事業が整備されて放置されていましたが、先人が残した遺産の再発見の見地から、休息所を兼ねて修復・再現しました。この井戸はつるべ式で実際に水を汲むことができますが、その際は安全に十分ご注意ください。また、飲料水ではないので、飲まないでください。

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垂井一里塚と浅野幸長陣跡~旧中山道を歩く(19回目)

2013-05-11 11:31:27 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<加納宿(岐阜駅)~関ヶ原駅
2013年4月20日 19回目

垂井一里塚と浅野幸長陣跡

 

 

 

史跡 垂井一里塚 昭和5年10月3日指定

徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(四キロ弱)ごとに、五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約三メートル)、頂に榎を植栽した塚が道を挟んで二基ずつ築かれた。垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っている。旅人にとっては、人夫や馬を借りる里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休所となった。 国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村のそれと二か所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。

 

関ヶ原の戦い 浅野幸長陣跡

 

幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐府中十六万石の領主であった。関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。 平成十八年十一月 垂井町教育委員会

 

 

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日守の茶所~旧中山道を歩く(19回目)

2013-05-11 11:22:21 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<加納宿(岐阜駅)~関ヶ原駅
2013年4月20日 19回目

日守の茶所

 

江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に秋風庵を建てた。それを明治になって、一里塚の隣りに移し、中山道を通る人々の休み場として、昭和の初めまで盛んに利用された。 また、大垣新四国八十八ヶ所弘法の札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物である。 垂井町

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垂井宿西の見付と広重の絵~旧中山道を歩く(19回目)

2013-05-11 11:10:59 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<加納宿(岐阜駅)~関ヶ原駅
2013年4月20日 19回目

垂井宿西の見付と広重の絵

 

 

▲垂井宿西の見付と広重の絵

 

一、西の見付
 垂井宿の西の入口で大名行列を迎えた。非常事態発生の時、閉鎖した。

二、安藤広重の垂井宿の絵

 広重がこの付近から西を見て、雨の降る中山道松並木の中を、大名が行列をつくり、西より垂井宿の西の見付へ入ってくる様子や本陣からの出迎え、茶店の様子も左右対称的によく描いた版画の傑作である。 垂井町

 

 

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本龍寺~岐阜県不破郡垂井町垂井

2013-05-11 11:00:30 | 神社・仏閣・教会

2013年4月20日 岐阜県

本龍寺

岐阜県不破郡垂井町垂井

本龍寺の山門や書院の玄関は脇本陣から移築したものといわれています。松尾芭蕉は元禄4年(1691)この寺の住職規外を訪ね、冬籠もりして「作り木塚をつくり句碑を建てました。安政2年(1855)化月坊が住職世外とで時雨庵を建て句会を開き句碑も建てています。 じゃらん

▲この門が脇本陣の門なのだろうか?

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本龍寺(岐阜県不破郡垂井町垂井)~旧中山道を歩く(19回目)

2013-05-11 11:00:29 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>加納宿(岐阜駅)~関ヶ原駅
2013年4月20日 19回目

本龍寺

岐阜県不破郡垂井町垂井

本龍寺の山門や書院の玄関は脇本陣から移築したものといわれています。松尾芭蕉は元禄4年(1691)この寺の住職規外を訪ね、冬籠もりして「作り木塚をつくり句碑を建てました。安政2年(1855)化月坊が住職世外とで時雨庵を建て句会を開き句碑も建てています。 じゃらん

 

▲この門が脇本陣の門なのだろうか?

 

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