街道ウォーク<旧中山道<加納宿(岐阜駅)~関ヶ原駅
2013年4月20日 19回目
小簾紅園(おずこうえん)と呂久の渡し
岐阜県瑞穂市呂久
天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通が頻繁となり、
赤坂―呂久―美江寺―河渡―加納の新路線が栄えた。これが江戸時代の初頭に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。 慶長15年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、十三を数え、中でも船年寄真淵家には、船頭八人、助務七人が置かれた。その頃の川幅は、平水で90m、中水で120m、大水では180mに及んだといわれています。 文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道を御降嫁の折、この呂久川を渡られ、その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め、これに感懐を託されて、「落ちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」と詠まれた。後に、和宮様の御遺徳をしのび、昭和四年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした
「小簾紅園」が建設され昭和45年(1970)には、巣南町指定史跡となった。この地「呂久の渡船場」は、大正14年(1925)木曽川上流改修の揖斐川 新川付け替え工事完成により、この地より東へ移り、現在の揖斐川水流となり長い歴史を閉じることとなった。昭和45年(1970)呂久渡船場跡碑建立 瑞穂市
☆cosmophantom