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コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

小簾紅園(おずこうえん)と呂久の渡し(岐阜県瑞穂市)~旧中山道を歩く(19回目)

2013-05-06 11:34:32 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<加納宿(岐阜駅)~関ヶ原駅
2013年4月20日 19回目

小簾紅園(おずこうえん)と呂久の渡し

岐阜県瑞穂市呂久

 

 

 天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通が頻繁となり、
赤坂―呂久―美江寺―河渡―加納の新路線が栄えた。これが江戸時代の初頭に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。 慶長15年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、十三を数え、中でも船年寄真淵家には、船頭八人、助務七人が置かれた。その頃の川幅は、平水で90m、中水で120m、大水では180mに及んだといわれています。 文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道を御降嫁の折、この呂久川を渡られ、その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め、これに感懐を託されて、「落ちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」と詠まれた。後に、和宮様の御遺徳をしのび、昭和四年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした
「小簾紅園」が建設され昭和45年(1970)には、巣南町指定史跡となった。この地「呂久の渡船場」は、大正14年(1925)木曽川上流改修の揖斐川 新川付け替え工事完成により、この地より東へ移り、現在の揖斐川水流となり長い歴史を閉じることとなった。昭和45年(1970)呂久渡船場跡碑建立 瑞穂市

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赤坂に至る旧道の様子~旧中山道を歩く(19回目)

2013-05-06 05:15:19 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<加納宿(岐阜駅)~関ヶ原駅
2013年4月20日 19回目

赤坂に至る旧道の様子

 

 

 

 

瑞穂市内の中山道は、幕府へ降嫁された皇女和宮の遺徳をたたえて建設された呂久(ろく)の「小廉紅園」から揖斐川の「呂久の渡し」、田之上(新月)にある鎌倉時代後期の自然居士作の千躰仏をまつった千躰寺、天保四年創建の美江寺千手観音堂前、美江寺宿の本陣跡地、明治三十五年再建の美江寺観音、明治十四年改名の美江神社を経由したのち、五六川を渡り、高札場跡地、寛文十年設立の本田代官所跡地、文化六年建立の本田地蔵堂(延命地蔵)がある本田地内を通過し、河渡宿(岐阜市)に通じていました。終戦直後までは、現在の呂久から田之上(新月)に至る両側には江戸時代初期に植えられた松並木が素晴らしい景観を保ち、当時の旅人の心に安らぎを与えていましたが、その後の土地改良等により、残念ながら当時の松並木は消滅してしまいました。 また、中山道は東海道に比べ水の難が少なく、江戸へ嫁いだ姫君も頻繁に往来したため、別名「姫街道」と呼ばれました。

 

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美江寺宿石碑と説明板~旧中山道を歩く(19回目)

2013-05-06 04:52:53 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<加納宿(岐阜駅)~関ヶ原駅
2013年4月20日 19回目

 美江寺宿石碑と説明板

 

美江寺は既に、天正十七年(1589)豊臣秀吉の下知によって、問屋場が設けられ、往還の荷物中継ぎの業務に当たっていましたが、江戸時代になって中仙道が整備されるに及んで、近世宿場制による駅伝業務を担当する宿場となりました。寛永十四年(1637)四月伝馬役家と徒歩役家各々二十五軒を定めて問屋の支配下におき、交通業務に当たったのが、美江寺宿公式開設であります。宿場機関の一つである本陣は、宿場開設より三十二年後の寛文九年(1669)春、時の領主「加納藩」の戸田丹波守光永によって建設され、問屋「山本金兵衛画管理を兼ねました。以後、「山本家」が世襲して宿駅制廃止まで継承しました。一般旅人のための旅籠や茶屋は年代により増減があったが、これは幕府改革の影響でしょう。明治三年(1870)閏(うるう)十月、民部省布告による「宿駅制廃止」に伴い、宿場の歴史を閉じました。

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