コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

旧堀田邸(重要文化財)~千葉県佐倉市鏑木町

2013-10-31 08:32:03 | 神社・仏閣・教会

2013年10月12日 千葉県

旧堀田邸 重要文化財

千葉県佐倉市 鏑木町 

旧堀田邸は、最後の佐倉藩主堀田正倫が、維新後東京から佐倉に移り住んだ邸宅です。平成11年秋に大規模な補修復元工事を終えました。 また、明治期の庭師、伊藤彦右衛門による庭園部分は「さくら庭園」として常時開放されており、自由に見学・散策ができます。 平成18年7月5日には、住居部の玄関棟・座敷棟・居間棟・書斎棟・湯殿および土蔵、門番所の7棟が、「旧堀田家住宅」として国の重要文化財(建造物)に指定されました。佐倉市ホームページより

千葉県佐倉市鏑木町字諏訪尾余274

 

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佐倉武家屋敷~千葉県佐倉市宮小路町

2013-10-29 07:57:00 | 建築物(洋館以外)

2013年10月12日 千葉県

佐倉武家屋敷

千葉県佐倉市宮小路町

城下町佐倉の面影をいまに残す武家屋敷通り。道路に面して築かれた土塁や生垣に往時をしのぶことができます。通りの奥まったところにある旧河原家住宅(県指定有形文化財)は、市内に残る武家住宅の中で最も古いものとされ、展示された調度品に佐倉の武士の生活様式を垣間見ることができます。佐倉市ホームページより

旧河原家住宅

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旧但馬家住居

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旧武井家住宅

 

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ひよどり坂

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くらやみ坂

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佐倉城址(100名城)~千葉県佐倉市城内町

2013-10-28 18:37:43 | 100名城

2013年10月12日 千葉県

佐倉城址 100名城

千葉県佐倉市城内町

佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532年から1552年)に千葉氏の一族である鹿島幹胤(かしまもとたね)が鹿島台に築いたといわれる中世城郭を原型として、江戸時代初期の慶長15年(1610年)に佐倉に封ぜられた土井利勝によって翌慶長16年(1611年)から元和2年(1616年)までの間に築造された平山城です。

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古園石仏大日如来像(複製):本物は大分県臼杵市深田にあり、磨崖仏で国宝

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▲曲輪だろうか?

▲椎木曲輪(侍屋敷)

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馬出空濠

城門前に築いて人馬の出入りを敵に知られないようにした土手を馬出しといいます。この馬出し空濠は、明治初期から連隊を造営するために埋め立てられていましたが、昭和46年の発掘調査によって長さや深さなどが確認され、復元されました。復元に当たっては当時の深さよりも若干浅くなっています。千葉の公園ガイドより

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 姥が池

昔、この池のまわりで家老の娘をおもりしていた姥(うば)が、あやまって娘を池に落として沈めてしまい、困り果てて自分も身を投げたということからこのような名がついたそうです。千葉の公園ガイドより

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▲堀田正睦公像

開国の父とよばれた堀田正睦(1810~1864)公は、佐倉藩に西洋の学問を奨励し、幕末期の老中として、動乱の日本を開国に導いた佐倉藩主として知られています。 佐倉市ホームページより

▲空堀

▲本丸跡

▲二の門(?)跡

▲城南堤

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佐倉の町並み~千葉県佐倉市

2013-10-27 07:09:56 | 町並み

2013年10月12日 千葉県

佐倉の町並み

 千葉県佐倉市

印旛沼を中心に、多くの原始古代遺跡がある。市内中央部の江原台には、日本考古学草創期に注目を集めた遺跡があり、東端には、白鳳期の長熊廃寺跡が残る。鎌倉時代・室町時代を通じて下総守護として発展した下総千葉氏は、戦国時代になると本佐倉城(国の史跡、現・酒々井町本佐倉)を拠点とし、ここに佐倉千葉氏が成立した。戦国時代末期になると後北条氏の配下となり安房の里見氏の侵攻に対抗している。千葉親胤は鹿島城(のちの佐倉城)の建立に着手するが、暗殺され、一族の鹿島幹胤が引き継ぐも建設途上で死去。完成を目指した千葉邦胤は家臣に殺害される。後北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡すると、鹿島城は建設途上で焼かれ、千葉氏も滅亡してしまう。その後近くの臼井城に徳川四天王の一人酒井忠次の息子である酒井家次が(臼井藩、後に佐倉藩領に編入)、同じく弥富城には北条氏一族の北条氏勝が(岩富藩、後に転封により収公)入城している。江戸時代初期には土井利勝が鹿島城を改造して佐倉城を築き、その後、堀田氏の居城となり、老中首座となった堀田正亮が11万石とし、佐倉は城下町として繁栄した。佐倉藩は、武田(徳川)家、松平家等、老中や大老となる幕閣の中心人物が入封する重要な藩であった。幕末の老中堀田正睦は蘭学を奨励し、佐藤泰然に順天堂(現・千葉県指定史跡佐倉順天堂)を開かせた。また、「西の長崎、東の佐倉」として西洋医学の街としても栄えた。

▲創業寛政年

 

▲海隣寺は馬加から酒々井を経て、現在地の佐倉に移った。

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麻賀多神社

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▲明治25年(1892)の土蔵▼

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三谷家住宅

三谷家は旧成田街道に面し、江戸時代からの呉服太物を扱う老舗として佐倉に唯一残っている商家です。袖蔵の創建は棟札により明治17年(1884)と判明し、主屋もその頃には建っていたと考えられます。また、座敷屋は昭和10年(1935)位頃に建てられています。いずれの建物も近代の佐倉における有力商家にふさわしく造形的に優れた建物であり、出桁造の主屋と並んで袖蔵が建つ当時の商家の構えが残されています。 市登録有形文化財

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石渡家住宅

石渡家は旧成田街道に面した明治時代から続く商家です。主屋は「みせ」と「すまい」からなり、「みせ」は大正5年(1916)、「すまい」は明治40年(1907)に建てられたことが判明しています。蔵は明治38年(1905)以前に建てられたと推定されますが、詳しくは不明です。出桁造の「みせ」(外観は一部改装)の東西の壁を漆喰塗にするなど、佐倉の町屋の特徴が残されています。また、蔵は屋根のつうじ棟や軒先に優れた意匠が見られます。

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旧佐倉順天堂

佐倉順天堂は藩主堀田正睦の招きを受けた蘭医佐藤泰然が天保14年(1843)に開いた蘭医学の塾。西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出しました。現在、安政5年(1858)に建てられた建物の一部が残り、これを記念館として公開しています。

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旧開智学校(重要文化財)2013~長野県松本市開智

2013-10-25 19:45:24 | 洋館

2013年10月10日 長野県

 

旧開智学校2013 重要文化財

長野県松本市開智

旧開智学校は明治6年(1873)に開校、明治9年に新築されたわが国最古級の擬洋風小学校建築です。構造は木造で桟瓦葺、寄木2階建土蔵造りで中央に八角塔が高くそびえ立ち、各窓に舶来のギヤマンが取り付けられています。現在は教育博物館として教育資料約3万点が保存されています。  さわやか信州旅.より

松本市立開智小学校:塔は旧校舎から引き継がれている。

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松本城2013(100名城)~長野県松本市

2013-10-23 16:06:08 | 100名城

2013年10月10日 長野県

松本城 100名城

長野県松本市

松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市にあった城である。安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。市民からは別名烏城(からすじょう)[1]とも呼ばれている。しかし文献上には烏城という表記は一切ない。

戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、松本平の信濃府中(井川)に井川館を構えていた信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下におく。武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城に改名した。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政も下総古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が返り咲く。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。享保12年(1727年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。

 

黒門

天守閣より

▲旧開智学校方向

▲花頭窓

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▲「宇宙ツツジ」本丸御殿跡」??????

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2015年4月17日 松本城

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松代藩文武学校~長野県長野市松代町松代

2013-10-22 06:03:10 | 建築物(洋館以外)

 2013年10月10日 長野県

松代藩文武学校 

長野県長野市松代町松代

文武を奨励した松代藩八代藩主・幸貫が水戸の弘道館にならって計画し、九代・幸教の時代に完成した松代藩の藩校です。藩士の子弟が学問と武道を学ぶ場として、1855(安政2)年に開校しました。 教室にあたる文学所、武術を学ぶ剣術所、柔術所、弓術所、槍術所などが配置されています。当時の時間割には東洋・西洋の医学、小笠原流礼法、西洋の軍学なども組み込まれており、先進的な教育が行われていました。各地の藩校の多くが幕府の学問所にならって敷地内に孔子廟を設け、儒教を重んじる風習がありましたが、文武学校には設けていないことからも、近代的な学校の先駆けであったことがうかがえます。 建物は、創建時の姿を現在に伝る貴重な遺構で、1953(昭和28)年に国の史跡に指定されています。真田宝物館ホームページより

▲文庫蔵は改修中。。。

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▲旧樋口家

 

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真田邸~長野県長野市松代町松代

2013-10-20 06:11:27 | 建築物(洋館以外)

2013年10月10日 長野県

真田邸 

長野県長野市松代町

真田邸は文久2年(1862)の江戸幕府改革のおり、参勤交代制度が緩められ、江戸住まいを命じられていた9代藩主・真田幸教の義母・貞松院が松代に帰ることになり、その居宅として元治元年(1864)に建てられました。後には隠居した幸教の住まいとなり、明治維新後は、真田家の別邸となりました。

▲当時の物だとか。。。

 

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松代城(海津城)100名城~長野市松代町松代

2013-10-19 06:24:49 | 100名城

2013年10月10日 長野県

松代城 (海津城) 100名城

長野市松代町松代

正確な築城時期は不明。戦国期には甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)との北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展する。千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備され、『甲陽軍鑑』に拠れば武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収し、武田家足軽大将の山本勘助に命じて築城され、『軍鑑』に拠れば本城には小山田虎満(備中守)、二曲輪に市川等張・原与惣左衛門が配置されたという。文書上においては海津城の築城は1559年(永禄2年)から開始され(『信濃史料』12巻 - 250号)、翌年には完成している(『軍鑑』)。築城は屋代氏、香坂氏ら川中島四郡(埴科郡、高井郡、水内郡)の国衆が担ったという。 Wikipediaより

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松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献に確認できるのが永禄3年(1560)ですので、このころはすでに築城されていたことがわかります。戦国時代から江戸時代初頭までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点となっていました。元和8年(1622)に真田信之が松代に移ると、松代城本丸に御殿を建築し、松代藩政の拠点としました。その後、江戸時代の半ばには、御殿が城の南西に位置する花の丸に移ることになり、本丸は機能を持たなくなりました。

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上山田温泉(長野県千曲市)

2013-10-17 19:08:19 | 温泉街

2013年10月10日 長野県

上山田温泉 

長野県千曲市

明治中期に千曲川の河川敷に戸倉温泉、上山田温泉が相次いで開湯され、善光寺参りの精進落としの湯として賑わった。例年、千曲川の水害に見舞われて一時は移転を余儀なくされたが、明治末期から大正時代にかけて堤防や温泉施設の整備が進み、大正後期には現在の温泉街・繁華街が成立した。戦後間もないころは傷病兵の湯治場となり、最盛期の昭和後期には企業の団体客など年間130万人以上の観光客が訪れた。Wikipediaより

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千曲川 (大正橋)

 

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恋しの湯伝説

戸倉上山田温泉街に入る千曲川渡る橋「大正橋」の舗道には「赤い小石」が99個埋められております。
その昔、離ればなれになった恋人を心配し観音様にお参りしたところ、「恋しいあの人が踏んだ千曲の赤い小石を百個拾えば帰ってくる」とのお告げを信じ、毎日河原で赤い小石を拾い、最後の一つを拾い上げた時、石の下から温泉がわき出てきて、恋人も戻ってきたというラブストーリー。以来、この「いで湯」は「小石(恋し)の湯」と呼ばれています。 中央ホテルホームページより

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獅子ヶ岩(鼻)

この岩塊は、約2000万年前にこの地方が入海だった頃、その海底にたまった三紀層の泥岩である。それが、熱の変質作用を受けて硬い赤みを帯びた岩となり、その地層中へ大成岩(マグマ)の石英斑岩が貫入して形成された。現在、冠着山東尾根が約4Km千曲川に突き出す地形となり、その先端が獅子ヶ鼻と呼ばれている。獅子は、百獣の王と言われるように天下を治める王者の如く、愛情の中にも厳しい風格を備え、千曲川のすさぶ川風にもめげず断崖上に臥している。明治十一年、獅子ヶ鼻から荒砥沢の出会いまでの明治新道が開削された。その獅子が鼻の岩の割れ目に、幾百年となく変わらぬ姿で深く根を下ろしたヒモロの木(ビャクシンまたはシンパク)を神木として祀り、この岩を守護として残し道を切り開いたと言われている。以来、この岩を「獅子ヶ鼻」と呼び、神の縁り代と言われるヒモロ木と共に大切に祀ってきたものです。 説明版より

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佐良志奈神社

允恭天皇(433年頃)の創建といわれ、地元の人々からは“若宮様”と呼ばれ、親しまれる佐良志奈神社。 作家・志賀直哉の「豊年蟲」にも描かれている神社です。 千曲市観光協会ホームページより

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▲「とぐら」

▲「KAMIYAMADA」

▲「ちくまがわ」

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川中島古戦場八幡原(長野県長野市小島田町)

2013-10-16 08:14:50 | 遺産・遺跡など

2013年10月9日 長野県

川中島古戦場八幡原 

長野県長野市小島田町

越後:上杉政虎対甲斐:武田晴信軍による川中島の戦い・第四次合戦(八幡原の戦い)に於いて、武田軍が本陣をこの付近に置いたと伝えられる。5度にわたって繰り広げられた信玄と謙信の川中島の戦いの中で、永禄4年(1561)の戦いの舞台になったのが八幡原。ここでの戦いが最も激しく、副将・武田典厩信繁、山本勘助ら勇将が戦死した。

▲謙信VS信玄

 

 

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三太刀七太刀之跡

読みは「みたち・ななたちのあと」の碑。謙信・信玄一騎討ちの場所と伝えられ、三度斬りつけ軍配団扇(ぐんばいうちわ)には七つの傷が残っていたことから、こう言われている。逸話では、永禄4年(1561)の川中島合戦に、武田・上杉両陣営の旗本(はたもと)が入り乱れての大乱戦となった、信玄の身辺が手薄になったとき、風のように信玄の本陣に切り込んできた武者がいた。萌黄(もえぎ)の胴肩衣(どうかたぎぬ)をつけ、頭を白布で包んだ武者は月毛の馬の馬上から、三尺ほどの太刀をふるい、床几(しょうぎ※)にかけている信玄めがけて、三太刀斬りつけた。信玄は立ち上がり手にした軍配団扇で受け止めたが腕に二箇所の傷をおった。駆けつけた信玄の旗本が槍で馬上の武者を突いたがはずれ、鎧の肩にささった。これを叩き落とそうとして馬の尻を叩いてしまったので、馬が立ち上がり、一目散に走り去った。この白頭巾の武者こそが、上杉謙信であったという。後で信玄の団扇を調べてみると、刀の傷が七つもあった。※床几…折りたたみ式の腰掛け。長野市「信州・風林火山」特設サイトより

 

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執念の石

武田・上杉両軍が3万余の死闘を展開した永禄4年(1561)の川中島合戦。上杉軍は車懸かりの戦法をとり、武田軍本陣の信玄めがけ上杉謙信が切り込んできた。謙信の鋭い太刀に、信玄は手にした軍配団扇で受け止めたが、腕に傷を負った。急を見て信玄のもとに駆けつけた家臣の原大隅守虎胤※(はらおおすみのかみとらたね)は傍らにあった信玄の槍で馬上の謙信を突いた。しかし、槍先ははずれ、拍子で驚いた馬が立ち上がり、一目散に走り去った。主君の危急を救いながらも、謙信を取り逃がした原大隅が、その無念さから傍らの石を槍で突き通したと伝えられるのが、この執念の石である。長野市「信州・風林火山」特設サイトより

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八幡社

八幡社は山本勘助が海津城を築くときに水除け八幡として、この地に勧請したと伝えています。永祿4年の第4次川中島の戦いのときに武田信玄が八幡原に本陣を構え、激戦場になったため社殿は破壊されてしまった。そこで信玄は海津城代高坂昌信(春日虎綱)に命じて社殿を再建させました。川中島古戦場~武田信玄・上杉謙信両雄激突の地~より現在ある社殿は、上田市の生島足島神社が改築されたときの旧社殿を譲り受け、皇紀2600年記念事業として、昭和15年に移築したものだそうです。  川中島古戦場~武田信玄・上杉謙信両雄激突の地~より

 

※ この場所で大きな戦いがあったことは確かなことだろう。だけれども戦いの跡を示す遺構などはなく、ただ思いを馳せるだけ。。。

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善光寺2013(長野県長野市)

2013-10-15 06:10:29 | 神社・仏閣・教会

2013年10月9日 長野県

善光寺 

長野県長野市元善町

長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院である。山号は「定額山」(じょうがくさん)。山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。Wikipediaより

現在の善光寺仁王門は明治24年(1891)の火災後に再建されたもので大正7年(1918)に竣工しました。内部に安置されている仁王像と三宝荒神、三面大黒天は高村光雲、米原雲海の合作で仁王門竣工より1年遅れの大正8年に開眼式を迎えています。又、正面の額は伏見宮貞愛親王の御筆。 長野県WEB観光案内所ホームページより

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山門

寛延三年(1750年)に建立された二層入母屋造りの門です。屋根は大正年間の葺き替え時に檜皮葺きとなりましたが、平成十四年から十九年にかけて行われた平成大修理において、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原されました。楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されています。更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語っています。善光寺ホームページより

 

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本堂

本堂は創建以来十数回もの火災に遭いましたが、そのたびに善光寺を慕う全国の信徒によって復興されてきました。現在の本堂は宝永四年(1707年)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。間口約24メートル、奥行き約54メートル、高さ約26メートルという国内有数の木造建築で、T字型の棟の形が鐘を叩く撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれています。屋根は総檜皮(ひわだ)葺きです。 善光寺ホームページより

 

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経蔵

善光寺経蔵は宝暦9年(1759)に建てられた宝形造、一重、檜皮葺、桁行五間、梁間五間、高さ13.5mの建物です。内部には八角形の回転式輪蔵が安置され仏教経典を網羅した一切経が収められ、腕木を押して1回転させると一切経を全て読んだと同じ功徳があると言われています。又、輪蔵と並び伝教大師像や慈覚大師像、傳大士像、釈迦三尊像、如意輪観音像などが安置されています。善光寺経蔵は国指定重要文化財に指定されています。長野県WEB観光案内所ホームページより

 

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六地蔵

宝暦九年(1759年)に浅草天王町祐昌が願主となって造立されましたが、昭和十九年に金物供出に出されてしまいました。現在の六地蔵は昭和二十九年に再興されたものです。 六地蔵とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの世界で我々衆生を救ってくださる菩薩様です。善光寺ホームページより

▲一番右地獄界の地蔵菩薩の左足が台座から踏み出されているのは・・・・・

 

※牛に引かれて善光寺参り
昔、長野の善光寺近くに住んでいた不信人で欲深い老婆が、さらしていた布を隣の家の牛が角に引っかけて走り出したのを見て、その牛を追っていくうちに善光寺にたどり着き、それがきっかけで度々善光寺に参詣するようになり、信仰の道に入ったという言い伝えから。故事ことわざ辞典より

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林泉寺~新潟県上越市

2013-10-14 06:46:34 | 神社・仏閣・教会

 2013年10月9日 新潟県

林泉寺 

新潟県上越市

越後国守護代長尾氏およびその後裔である上杉氏の菩提寺として知られる曹洞宗の寺院である。山号は春日山(かすがさん)。長尾氏の居城・春日山城(現在の新潟県上越市)の山麓に建立された上越市の林泉寺と、江戸時代初期に上杉氏が移封先の米沢城下(現在の山形県米沢市)に建立した米沢市の林泉寺がある。Wikipediaより

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惣門

惣門は春日山城の搦手門を移築したものと伝えられ、現存する唯一の春日山城の建築物となっている。また、山門に掲げられた「第一義」の扁額(宝物館で保管され、現在掲げられているものは複製)は謙信の直筆である。Wikipediaより

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山門

▲ 春日山

▲第一義

▲山門天井に描かれている龍

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本堂

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▲上杉謙信の墓

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春日山城跡(100名城)~新潟県上越市

2013-10-13 06:32:04 | その他の城

2013年10月9日 新潟県

春日山城跡 100名城

新潟県上越市中屋敷字春日山

戦国時代の名将・上杉謙信公の居城として知られる春日山城跡。国の指定史跡であり、日本百名城にも数えられています。築城の時期についてはよくわかっていませんが、南北朝時代(約600年前)には既に存在していたようです。ただ、現在見られるような広大な城に整備されるのは後のことで、上杉謙信公・景勝公と堀氏によるものと考えられています。「城」という字が「土偏」に「成る」と書くように、春日山城はまさに「土の城」であり、複雑な自然の地形を巧みに利用した堅固な城塞は、難攻不落の天下の名城といわれました。現在も、空堀(からぼり・尾根を掘って作る人工的な凹地)や土塁(どるい・土を盛って作った障壁)、大井戸など山城の特徴が残り、屋敷や空堀が展開する山の裾野に、延長1.2kmにも及ぶ堀と土塁で総構(そうがまえ・防御のため外周を囲った日本の城郭構造)がつくられる点が特徴で、全国的にも珍しいといわれています。標高約180mにある本丸跡からは、日本海や頸城平野、それを取り巻く山並みをも一望できます。また、春日山城跡の中腹には、昭和44年のNHK大河ドラマ「天と地と」放映にあたり制作された、上杉謙信公の銅像があります。上田市ホームページより

 

▲上杉謙信像 見つめる方向は川中島か?

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上杉三郎景虎屋敷跡

▲上杉三郎景虎屋敷跡
上杉謙信の死後、跡目を争った「御館の乱」で破れた悲劇の武将三郎景虎。小田原城主北条氏康の子で、人質として春日山城に来ました。謙信から景虎の名を与えられたことでも、人質としては破格の待遇であったことがわかります。また、美男として伝えられています。跡目争いでは越後国外からの人質であったためか次第に援助の武将も離れ、最後は自害して一生を終えました。

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三の丸屋敷跡

▲三の丸屋敷跡
春日山では最も良好な状態で土塁が残る「米蔵跡」、謙信公が自らの名前を与えて住まわせた養子「三郎景虎屋敷跡」などを総称して「三の丸屋敷跡と呼ぶ。それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、「景虎屋敷跡」の東端に入口が設けられ、今も道が残っている。「米蔵跡」の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所と考えられている。三郎景虎公は謙信公の死後に起こった「御館の乱」で敗れ悲運の死を遂げた。公を慕って屋敷跡を訪れる人も多く。今、春日山上の中で最も注目を集めている所である。

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土塁

春日山城内で最も良好に残っている土塁跡です。郭を普請する際、削平した時に出た土を盛り堅め、防御の役割を果たしました。当時は、各郭にこのような土塁が築かれ、春日山城の守備を一層強固にしていたと想像されます。

▲土塁からの眺め▼ 

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二の丸屋敷

本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成しています。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられています。 古絵図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っていることも、当時の二の丸における生活を知る手掛かりとなっています。

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井戸曲輪

井戸曲輪

廃城後四百年の星霜を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれる。城の古絵図にもここだけに井と、井戸があることを示しており、古くから注目されていたことが分かる。  どのようにして、水が湧く地点を調べたか定かではないが、地質学的には、西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が仂いて、水が湧くとのことである。 なお、数十年前に井戸さらいが行なわれ、滑車や杓などが見つかっている。

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油流し

本丸の西斜面にあたるこの場所は、急斜面となっていて、「油流し」と呼ばれています。あまりの急斜面で滑ってしまうことから、油を流した時のように滑りやすい斜面の意味で名付けられたのかもしれません

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景勝屋敷跡

 「御館の乱」で勝利をおさめ、謙信公の跡目を相続した 景勝公の屋敷と伝えられている。景勝公は謙信公の姉千桃院の子で、 直江山城守兼続という知将を得て、豊臣秀吉の五大老の1人にまでなった。 景勝屋敷跡とその周辺の屋敷跡は、総じて大規模で、尾根を巧みに利用して段を削出し、数段で1つの屋敷が形成されている。 春日山神社から谷愛宕にかけての屋敷跡群が雛壇状に並んで造られているのとは対照的である。景勝屋敷を中心とする屋敷跡群が地形に逆らわず定型化していないのは、春日山城の古い段階での普請を示しているといえる。

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本丸

南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれた所です。標高180mの本丸からは、かっての越後府中(直江津)と周辺の山々の支城跡や日本海が一望できます。関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、慶長2年(1597)の「越後国絵図」に描かれた中世の景観とほとんど変わりません。関川の手前を手でかくして見てください。

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毘沙門堂

上杉謙信は、幼少時より信仰心が強く、春日山城中に毘沙門堂を建立して、日々読経を欠かさなかった。その静寂な祈りとは逆に、戦場では、軍神毘沙門天の化身などと諸国から畏怖されるほどの武将であったことは有名である。Wikipediaより

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虎口

城に入る玄関にあたる所「虎口」といいます。この虎口は、敵が城内に直進できなくするため、食違いになるよう工夫されています。春日山城は、謙信の頃に拡大され、壮大な城郭になったと考えられていますが、かってここまでが城の範囲であったと推測されます。

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空堀

 

ここは通称搦手、或いは附内口で、春日山神社の郭を経て 謙信の銅像の裏から登る道がここに通じている。それを断ち切る のがこの空堀で、平素は橋がかかっていた。

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千貫門

春日山城の古絵図に必ず描かれている門が千貫門。  今でも門が建っていたと考えられる部 分のみ、土塁が分断されていて、春日山神社側からクランク状の道がここに通じている。三方が 土塁と土手に囲まれ、左に二本、一見道と思われる切り通しがある。 これは空堀の底で、侵入者 を空堀から急峻な崖下に落とそうとしたものだろう。周到に計画された普請は、本丸と千貫門の 外とを区画する重要な地点であった事をうかがわせる。

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春日山神社

山形県米沢市の上杉神社より分霊され、謙信公を祭神に祀った神社です。明治34年(1901年)に、童話作家・小川未明の父である小川澄晴によって創建されました。日本近代郵便の父・前島密も援助したといわれています。上越市ホームページより

▲上杉の家紋「竹に雀」

☆cosmophantom

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結城(茨城県結城市)の町並み

2013-10-06 07:02:35 | 町並み

2013年10月2日 茨城県

結城(茨城県結城市)の町並み  

結城市は茨城県西部の玄関口として位置しており,古くは奈良・天平時代から『総の国ゆうき』と呼ばれていました。鎌倉時代に結城家初代朝光がこの地に館を構えて以来,結城家歴代の城下町となり,街なかには結城家ゆかりの寺社が数多く存在しています。同時に,高級絹織物『結城紬』の産地としても発展し,当地方で織られる『本場結城紬』は手つむぎ・絣くくり・地機織りの3工程が平成22年にユネスコ無形文化遺産に登録され,世界に誇る伝統文化となりました。現在も紬問屋等として利用されている『見世蔵』と呼ばれる蔵造り建築の街並みが,商都として栄えた結城の歴史を伝えています。 結城市ホームページより

▲駅前通り:奥に結城駅

▲創業元禄11年の和菓子屋

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▲旅館:昭和2年上棟の記録が残る古民家を旅館としている。

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▲結城の蔵:磯田邸居宅 明治中期建築 二階建て・切妻平入

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▲常光寺阿弥陀如来座像 常光寺は改修工事中でした。。。

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▲結城の蔵:簗嶋邸居宅 明治13年頃建築 二階建・寄棟妻入

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▲結城の蔵:会津屋呉服店 昭和5年建築 二階建・寄棟妻入

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▲稱名寺二条門(江戸時代) 結城市指定文化財

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 ▲「つむぎみそ」秋葉糀味噌醸造株式会社  昔ながらの製法にこだわる味噌屋さん 創業天保3年(1832年)

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▲結城の蔵:桜井長太郎商店 明治後期建築 二階建・切妻平入

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▲結城の蔵:鈴木新平商店 明治16年建築 二階建・切妻平入 

 

 

 ▲結城の蔵:須関商店 明治26年頃建築 平屋・寄棟妻入

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奥順 

奥澤家は代々紬問屋を営み、5代目に分家して店舗を構えたのが現在の奥順といわれます。大町の通りに面して建つ建造物は、保存状態がよく、年代の古さを感じさせません。結城市ホームページより

 

 ▲奥順見世蔵,奥順店舗,奥順土蔵 :明治19年建築

 ▲奥順壱の蔵:当初建築年代:年月日不詳 紬問屋付属施設
 

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 ▲旧黒川米穀店店舗 土蔵造・二階建・瓦葺 明治45年(1912)

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 結城城 

結城城(ゆうきじょう)は茨城県結城市結城にあった城。室町時代には結城合戦の舞台となった事で知られる。江戸時代には結城藩の藩庁が置かれた。

 ▲結城城跡:城の遺構などはありません。公園となっているようですが整備中でした。

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▲結城の蔵:山中石材店 明治28年建築 平屋建・切妻平八

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 ▲鈴木紡績見世蔵 明治39(1906)建築 木造平屋建、瓦葺

 ▲鈴木紡績主屋 明治39(1906)頃建築 木造2階一部平屋建、瓦葺

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 ▲クールだ!!

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▲河野商店 明治25年建築 切妻平入

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  ▲不明・・

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 ▲中澤商店 明治末期建築 土蔵造・瓦葺

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結城酒造 

結城酒造は、安政6(1859)年の酒造鑑札を持つ、老舗の酒蔵です。これらの建物は、結城の街が商業都市として栄え、酒造業も盛んであったことをいまに伝えています。結城市ホームページ

 

  結城酒造株式会社安政蔵 酒造業を始めた安政6(1859)年ころと考えられている。

 ▲煉瓦煙突 ホフマン 高さ10m  明治36(1903)年の建設と伝わっている。

 

 当主の方だろうか?丁寧に酒造にまつわる話をしていただき感謝です。

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 武勇酒造 

創業は江戸末期、慶応年間に初代、保坂 勇吉が北関東の城下町結城にて酒造りをはじめました。江戸、明治、大正、昭和、平成と幾たびか時代の大きな変化をくぐりぬけ、現在5代目保坂 嘉男代表の手腕で引き継がれております。武勇酒造ホームページより

  ▲武勇旧釜蔵 土蔵造平屋建 

 

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 ▼保坂家土蔵 土蔵造2階建 瓦葺 大正11年建築 

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  ▲ モチーフは結城市の花ユリ 

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台風22号の影響で午前中は雨模様。午後には雨も上がり ワイワイガヤガヤと同期入社の3人で結城の町を散策

☆cosmophantom

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