コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

清洲城(愛知県清須市)

2011-07-29 17:07:30 | その他の城

 2011年7月17日 愛知県

清洲城

愛知県清須市

郷土の英傑・織田信長公の天下取りの出発点であり、戦国の世を終結させ天下平定を目指す武将が重要拠点としていた清須城。平成元年に現在の場所に『清洲城』として再建整備されました。

以前より東海道線から見えるお城が気になっていました。清洲城だったのですネ

  

清洲城は当初、尾張守護所の下津城の別邸として築城されました。その後、下津城が戦乱で焼失したため1476年に守護所が清洲城へ移されたとされています。戦国の頃、尾張国は守護代の織田氏が実権を握っていました。尾張の上四郡を支配していた岩倉の織田氏と下四郡を支配した清洲の織田氏が争うなかで、清洲織田家当主の信友を那古野城主織田信長公は攻め滅ぼし清洲城に入城し、尾張の拠点としました。1560年の桶狭間の戦いで今川義元の軍勢を打ち破ったのを手始めに、美濃・近江等の近隣の国々を攻略して着々と天下統一へと歩みを進めていきました。しかし、1582年の本能寺の変によりその志は夢半ばで断たれてしまいました。このように天下統一の礎を築いた織田信長公は郷土の英雄として人々の尊敬を集めています。清洲城は、「関東の巨鎮」と称えられ、尾張はもとより東国の中心地として発展を遂げました。信長の長男の信忠、二男の信雄以降は名だたる武将が城主となりました。徳川義直の代の1610年、徳川家康は、清洲城の廃都と名古屋遷都を命じ、3年後には、「清須返し」が完了しました。清洲城は廃城となり、城下町から、美濃路の宿場町へと姿をかえていきました。

清洲城歴代城主
1.織田信秀 2.織田信友 3.織田信長 4.織田信雄 5.福島正則 6.徳川忠吉 7.徳川義直
清洲町が町制100周年を迎えた1989年(平成元年)4月、清洲のふれあい郷土館として清洲城天守閣を再建しました。平成17年7月に、西枇杷島町、清洲町、新川町が合併して清須市となった後も、清須市のシンボルとして人々の親しまれています。

 

▲天守閣から 名古屋市内方向

永禄3年(1560)織田信長が桶狭間出陣の途中、熱田宮に戦勝を祈願し、大勝したのでそのお礼として奉納された塀をモデルにしたものです。

 
▲清洲城の石垣(復元):「野面積み」という技法だそうです。

復元された本石垣は、平成8年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、清洲公園前の五条川右岸(現地は下流200mに銘板で標示)で発見されたもので、清洲越直前の本丸南側の石垣と考えられる。石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている。

車窓から▼

  

「清洲城 はかなき夢の 忘れ物」

                               cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋城2011(100名城)~愛知県名古屋市

2011-07-28 17:07:25 | 100名城

2011年7月17日 愛知県

名古屋城2011 100名城

愛知県名古屋市中区本丸

名古屋城の生い立ちは関ヶ原の合戦後、江戸幕府を開いた徳川家康が江戸幕府の東海道の要所として、また大阪方への備えとして、加藤清正・福島正則・前田利光等北国・西国の諸大名20名に慶長14年(1609)に普請(土木工事)を命じ、慶長17年(1612)に天守閣、諸櫓が完成、本丸御殿は慶長20年(1615)に完成しました。城内の石垣には工事を命じられた各大名や家臣たちが刻んだ目印(刻紋)が残っています。

大規模な修復工事が入っているようでした。

▲西の丸
 

▲清正石▼

名古屋城の門は、櫓門(2階建)と高麗門(平屋建)を枡型に配置し、石垣には防備を誇示するために大きな石を組み入れた。この石は加藤清正が運んできたといわれてきたが、この石塁は黒田長政の丁場であったので、「清正石」というのは単なる伝説であるろう。

▲清正の石曳▼
 

慶長15年(1610)加藤清正が徳川家康に願い出て、大小の天守閣の石垣工事を施工した。清正は巨石を修羅乗せて運ぶとき、石の上に乗り、気勢を上げたと伝えられ、「清正の石曳き」といわれている。

▲改修工事により集められた石?
 

▲展示されていた駕籠

▲名古屋場所中でした

 

「青空に キラリ輝く 金の鯱」

「金の鯱 食べてみたいな 天婦羅で」

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)

2011-07-27 17:07:23 | 神社・仏閣・教会

2011年7月17日 愛知県

「七里の渡し」から熱田神宮へ あまり時間がありませんでしたので僅かな時間となりました。

熱田神宮

愛知県名古屋市熱田区

熱田神宮の創祀は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の御鎮座に始まります。第12代景行天皇の御代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)は神剣を今の名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)でなくなられました。尊のお妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)は、神剣をここ熱田の地にお祀りになられました。以来、伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社(※)に列せられ国家鎮護の神宮として特別のお取り扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」と呼ばれ親しまれてきました。約6万坪の境内には、樹齢千年を越える大楠が緑陰を宿し、宝物館には信仰の歴史を物語るものとして、皇室を初め全国の崇敬者から寄せられた6千余点もの奉納品が収蔵展示されております。境内外には本宮・別宮外43社が祀られ、主な祭典・神事だけでも年間70余度、昔ながらの尊い手振りのまま今日に伝えられております。熱田神宮HPより

 

▲大楠
 

境内には楠の木が多く、特に大きな楠七本楠と呼び古くから有名である。この楠は弘法大師お手植えとも言われ、樹齢は千年以上と伝えられている。

 

   

境内にて「宮きしめん」味噌ダレを食す。特に美味しいものではなく、サービスもよくはありません。いわゆる大名商売か。お土産に「お札」と、自分のために「旅行安全のお守り」を購入

「大鳥居 夢よかなえと 手を合わす」

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丹羽家住宅(愛知県名古屋市熱田区)

2011-07-26 17:07:23 | 建築物(洋館以外)

2011年7月17日 愛知県

丹羽家住宅

名古屋市熱田区

丹羽家は幕末のころ、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各大名の潘名入り提灯箱が残されている。正面の破風付玄関はかつての格式の高さを残している。屋根に上がっていた卯建は戦災で破壊され、現在は袖卯建のみである。天保12年(1841)の「尾張名所図会・七里渡船着」には、当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。昭和59年、市の有形文化財に指定された。名古屋市教育委員会

cosmophantom 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丹羽家住宅(愛知県名古屋市熱田区)~旧東海道を歩く(12回目)

2011-07-26 17:07:22 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<池鯉鮒宿(知立駅)~宮(熱田)宿
2011年7月17日 12回目

丹羽家住宅

名古屋市熱田区

丹羽家は幕末のころ、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各大名の潘名入り提灯箱が残されている。正面の破風付玄関はかつての格式の高さを残している。屋根に上がっていた卯建は戦災で破壊され、現在は袖卯建のみである。天保12年(1841)の「尾張名所図会・七里渡船着」には、当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。昭和59年、市の有形文化財に指定された。名古屋市教育委員会

cosmophantom 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七里の渡し(愛知県名古屋市熱田区)~旧東海道を歩く(12回目)

2011-07-26 17:07:19 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<池鯉鮒宿(知立駅)~宮(熱田)宿
2011年7月17日 12回目

七里の渡し

  

江戸時代 東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の船着場としても栄えていた。寛永2(1625)に建てられた常夜灯は航行する船の貴重な目標であったが現在は復元されて往時の名残りをとどめている。安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができる。名古屋市

 

 

熱田湊常夜灯
この地は宮(熱田)の神戸(こうど)の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。常夜灯は寛永2(1625)年藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成(まさなり)の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。その後風害で破損したために、承応(じょうおう)3(1654)年に現在地に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政3(1791)年付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和30年復元した。名古屋市教育委員会

▲ 桑名方向をのぞむ

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮の宿赤本陣跡~旧東海道を歩く(12回目)

2011-07-26 17:07:18 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<池鯉鮒宿(知立駅)~宮(熱田)宿
2011年7月17日 12回目

宮の宿赤本陣跡

宮の宿は熱田宿とも呼ばれ、勅使や大名、旗本らの公用の宿泊施設である本陣が二軒あり、赤本陣と白本陣と呼んで区別していた。本陣職を承った者は土地の有力者に限られ、代々世襲で、赤本陣は南部新五左衛門が務め、苗字帯刀を許されていた。
 天保年間(1830~44)の東海道宿村大概帳によれば建坪236坪となっており、南部家の記録では間ロ約16間、奥行き21間であったと記されている。戦災によって本陣の遺構は全くない。 名古屋市教育委員会

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝馬町~旧東海道を歩く(12回目)

2011-07-26 17:07:15 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<池鯉鮒宿(知立駅)~宮(熱田)宿
2011年7月17日 12回目

伝馬町

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裁断橋跡(愛知県名古屋市熱田区伝馬町)~旧東海道を歩く(12回目)

2011-07-26 17:07:08 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<池鯉鮒宿(知立駅)~宮(熱田)宿
2011年7月17日 12回目

裁断橋跡

愛知県名古屋市熱田区伝馬町

 

 

宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。天正18年(1590)に18歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。33回忌にあたり、再び架け替えを志したが、それも果たさず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和8年(1622)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。名古屋市教育委員会

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本橋から357km(国道1号)~旧東海道を歩く(12回目)

2011-07-23 20:21:58 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<池鯉鮒宿(知立駅)~宮(熱田)宿
2011年7月17日 12回目

日本橋から357km

 

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山崎の長坂~旧東海道を歩く(12回目)

2011-07-23 20:21:53 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<池鯉鮒宿(知立駅)~宮(熱田)宿
2011年7月17日 12回目

山崎の長坂

 

cosmophantom 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠寺一里塚(88里)(愛知県名古屋市南区白雲町)~旧東海道を歩く(12回目)

2011-07-23 20:21:51 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<池鯉鮒宿(知立駅)~宮(熱田)宿
2011年7月17日 12回目

笠寺一里塚(愛知県名古屋市南区白雲町)

一里塚は、慶長9年(1604)幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を起点に、道程一里(約4キロ)ごとに道の両側に塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなった。ここは江戸から88里のところにあり、名古屋市内を通る旧東海道唯一の一里塚で現在、東側だけが残っている。

☆cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丹下町常夜灯(鳴海)~旧東海道を歩く(12回目)

2011-07-23 20:21:48 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<池鯉鮒宿(知立駅)~宮(熱田)宿
2011年7月17日 12回目

 

丹下町常夜灯(鳴海)

 

 鳴海宿の西口丹下町に建てられた常夜灯である。表に「秋葉大権現」右に「寛政四年一一」左に「新馬中」裏には「願主重因」と彫られている。寛政4年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。名古屋市教育委員会

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小塚家住宅(愛知県名古屋市緑区有松)

2011-07-23 20:21:47 | 建築物(洋館以外)

2011年7月17日 愛知県

小塚家住宅

愛知県名古屋市緑区有松

市指定有形文化財(平成四年)
主屋一棟、表倉一棟
南倉一棟
当住宅は重厚広壮な有松の絞問屋の形態をとどめている。主屋の1階は格子窓、2階は塗籠壁(ぬりごめかべ)、隣屋との境には卯達(うだつ)があり、塗籠造のうち最も古いものの一つと思われ、有松らしい町並みの景観上からも貴重な建物である。小塚家は屋号を山形屋として、明治期まで絞問屋を営んでいた。名古屋市教育委員会

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡家住宅~愛知県名古屋市緑区有松

2011-07-23 20:21:47 | 建築物(洋館以外)

2011年7月17日 愛知県

岡家住宅

愛知県名古屋市緑区有松

 

市指定有形文化財(昭和62年)
主屋1棟、作業場1棟
東蔵1棟、西蔵1棟、
当住宅は江戸時代末期の重厚な有松の絞り問屋の建築形態である。主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造(ぬりごめつくり)であり、このような形式では、現存する唯一の例で衣装的にも優れている。名古屋市教育委員会

☆cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする