明日「ひぐらしのなく頃に~カケラ遊び~」が発売されるということで、ひぐらしとの出会いが自分に与えた影響について再び書いてみたいと思う。
ひぐらしを「人生の転換点」と表現したのはもう二年ほど前のことだが、この内実について具体例を挙げながら詳しく述べたのが二ヶ月前の「ひぐらしのイベントCGがない意味・効果」であった。これらを簡単にまとめれば、私が「作品そのものを分析する視座」及び「作品に対する受け手の反応を分析する視座」を強く意識する契機をひぐらしは与えたということである(これは作品と言う領域に留まらず、「真―偽の二元論を超えて」などの歴史的事象にも繋がる)。
しかし正確には、上記の如き「他者への眼差し」に留まらず、ひぐらしは「自己に対する眼差し」と自己表現(方法)にも多大な影響を及ぼしている。例えば「ひぐらし綿流し編再考」などはプレイメモ(覚書)によって構成されているが、こういったものを(少なくともまとまった形で)書き始めたのはひぐらしが最初である。ところでひぐらしのプレイメモは自然に推理メモとなるわけだが、考えてみれば推理メモというものは「~が犯人だ」といった結論、ないしクリティカルな内容が書かれることはほとんどない。大抵は、その結論に到るためのちょっとした情報やふとした疑問(違和感の萌芽)を記録しておくためのものである。
この推理メモを一般化したものがフラグメントの作成、つまり一般的事象に対する違和感や興味を覚書として残す行為に他ならない。またキャラへのイメージ(演繹)より具体的・客観的証拠を集めるべき(帰納)という推理の姿勢は、そのまま具体例の積み重ねという帰納的思考に繋がるものである。
しかも推理メモは、自分の中に生まれた違和感や結論などをただ記録するだけのものではなかった。というのも、推理メモを掲示板に載せて度々議論したこともあり、中身を検証したりまとめたりする行為が必要になったからである。違和感などについて(推理)メモを取り、それをまとめ、掲示板に上げて議論する…これはそのままこのブログの形式そのものではないか。
かように、ひぐらしが私の表現方法に与えた影響は多大なものであった。もっとも、ひぐらし以降上記の傾向が突然生まれたり、あるいはそのように変化したと言うのなら確実に誤りであって、正しくは
ひぐらしを通してそれらが顕在化した
と言うべきだろう。しかし、ひぐらしが媒介に過ぎなかったとしても、影響の大きさは変わらないのだ。例えば識字(文字の読み書きができること)について考えてみよう。識字とは、単に教養の問題ではなく、今まで文字を知らなかった人が新たな自己表現手段を獲得する、という重大な意義を持っている。そこで語りだされた過去の経験や思いは決して識字によって生まれたわけではなく、その意味で文字を知ることは根源ではなく媒介に過ぎない。しかしながら、そのようにして自らの混沌を形にする契機を得た人々は、それまでの自分とは大きく変容していくのだという(『「あたりまえ」を疑う社会学』158~164p。書くことの効果も参照)。私にとってのひぐらしは、このような「文字を知る」にも等しい重大な意味を持っていた。そしてそれゆえに、ひぐらしは私の「人生の転換点」だったと言えるのである。
ひぐらしを「人生の転換点」と表現したのはもう二年ほど前のことだが、この内実について具体例を挙げながら詳しく述べたのが二ヶ月前の「ひぐらしのイベントCGがない意味・効果」であった。これらを簡単にまとめれば、私が「作品そのものを分析する視座」及び「作品に対する受け手の反応を分析する視座」を強く意識する契機をひぐらしは与えたということである(これは作品と言う領域に留まらず、「真―偽の二元論を超えて」などの歴史的事象にも繋がる)。
しかし正確には、上記の如き「他者への眼差し」に留まらず、ひぐらしは「自己に対する眼差し」と自己表現(方法)にも多大な影響を及ぼしている。例えば「ひぐらし綿流し編再考」などはプレイメモ(覚書)によって構成されているが、こういったものを(少なくともまとまった形で)書き始めたのはひぐらしが最初である。ところでひぐらしのプレイメモは自然に推理メモとなるわけだが、考えてみれば推理メモというものは「~が犯人だ」といった結論、ないしクリティカルな内容が書かれることはほとんどない。大抵は、その結論に到るためのちょっとした情報やふとした疑問(違和感の萌芽)を記録しておくためのものである。
この推理メモを一般化したものがフラグメントの作成、つまり一般的事象に対する違和感や興味を覚書として残す行為に他ならない。またキャラへのイメージ(演繹)より具体的・客観的証拠を集めるべき(帰納)という推理の姿勢は、そのまま具体例の積み重ねという帰納的思考に繋がるものである。
しかも推理メモは、自分の中に生まれた違和感や結論などをただ記録するだけのものではなかった。というのも、推理メモを掲示板に載せて度々議論したこともあり、中身を検証したりまとめたりする行為が必要になったからである。違和感などについて(推理)メモを取り、それをまとめ、掲示板に上げて議論する…これはそのままこのブログの形式そのものではないか。
かように、ひぐらしが私の表現方法に与えた影響は多大なものであった。もっとも、ひぐらし以降上記の傾向が突然生まれたり、あるいはそのように変化したと言うのなら確実に誤りであって、正しくは
ひぐらしを通してそれらが顕在化した
と言うべきだろう。しかし、ひぐらしが媒介に過ぎなかったとしても、影響の大きさは変わらないのだ。例えば識字(文字の読み書きができること)について考えてみよう。識字とは、単に教養の問題ではなく、今まで文字を知らなかった人が新たな自己表現手段を獲得する、という重大な意義を持っている。そこで語りだされた過去の経験や思いは決して識字によって生まれたわけではなく、その意味で文字を知ることは根源ではなく媒介に過ぎない。しかしながら、そのようにして自らの混沌を形にする契機を得た人々は、それまでの自分とは大きく変容していくのだという(『「あたりまえ」を疑う社会学』158~164p。書くことの効果も参照)。私にとってのひぐらしは、このような「文字を知る」にも等しい重大な意味を持っていた。そしてそれゆえに、ひぐらしは私の「人生の転換点」だったと言えるのである。
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