ひぐらしのイベントCGがない意味・効果:症候群との関連

2007-10-14 23:52:33 | ひぐらし
今回述べる内容は、一見すると基本的かつ自明なことにのように思えるかもしれない。しかしながら、いやだからこそ、「ひぐらしなく頃に」の本質に関わる非常に重要な問題である。どうかそのことを頭に置いて読んでもらえればと思う。


ひぐらしの原作PS2版の大きな違いの一つはイベントCGの有無である(原作では、罪滅ぼし編に一つ出てくるだけ)が、今PS2版をプレイしていて感じるのは、明らかに原作より怖くないということだ。まだ暇潰し編(PS2版では二周目にあたる)が終わったばかりなので断定はできないにしても、例えば魅音が「鷹の目」になって圭一に迫るシーンなどPS2版の方が明らかに迫力不足だと思う。単にイベントCGを出すだけでなく、ズームにしたり音声をかぶせたりと演出に力を入れていることはよくわかるのだが、それでも怖くないのだ。


なぜそのように感じるのだろうか?
今ではすでにひぐらしの真相を知っているから、という部分も多少はあるだろう。しかしながら、例えば原作の目明かし編をプレイしていて、雨降りのバス停でレナと詩音が話すシーンは今でもゾッとするものがあるから、すでに先を知っているという理由だけでは片付けられない。そこで両者の違いからもう一度理由を考えてみると、要はイベントCG(+声)があること自体がPS2版の怖さを和らげているのではないだろうか?詳しく言えば、イベントCGと声のあるPS2版はすでに情報が揃っている。ところが、キャラの立ち絵だけで状況が明示されない原作は、プレイヤーが勝手に自分の怖い状況や声を想像して怖がってくれるわけである。言い換えれば、「見えないからこそ怖い」と言えるだろう。


ここで二つの事実を想起したい。
まずは、人間が基本的に見えないもの[≒理解できない]を恐れる生き物であるということ(幽霊、暗闇、死など)。そしてもう一つは、推理というものが、見えるものを材料にするにしても、見えない部分をあれこれ想像したり疑ったりする行為だということだ。以前推理という行為が疑心暗鬼という点で症候群と重なることを述べたが、イベントCGが無いため想像するしかなく、しかもそれがより強い恐怖を生み出すのだとしたら、そもそも「(ひぐらしを)想像しつつプレイすること自体が症候群に類似する行為」とは言えないだろうか?例えば重度の症候群である沙都子が校長を鉄平と認識したことについて、梨花はだいたい以下のように言っている。

「沙都子がそうだと思えば、現実にそうなるのです。」

とはいえ、想像する行為がそのまま「現実にそうなる」とまで言うと抵抗を感じるだろう。しかし例えば、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉を我々は知っている。要するにこれは、「そうだと思えばそのように見える」ということに他ならない(オカルトの有無に関する議論などを想起したい)。そう考えれば、(怒れる魅音の姿などを)色々と想像することもまた症候群に繋がりうると言えるのではないだろうか。あるいは具体的な話をすると、「レナが良い子だと思いたい(=犯人とは思いたくない)」といった推理と言うより願望が公式掲示板に書かれていることもあったが、これなど(疑心暗鬼を経て)自分の思っている通りに相手の行動が捻じ曲げられる症候群と大同小異ではないか。なお、想像する行為自体が症候群に繋がりうると作者が意識していることは、そもそもの始まりが症候群で色濃く染め上げられた鬼隠し編であったことを想起すれば十分ではないだろうか。


こう書いていると、「想像する行為はひぐらしに対してだけではなく、作品一般に行われるものだ」という反論が出てくるだろうが、まさにその通りである。そしてひぐらしは、そこまで意識していると考えられる。言い換えれば、作品に対して個人が向かい合ったとき、想像などによって各々に「異本」(その人なりの作品世界)ができあがることを強く意識している。もっとも意識するだけなら大半の人間が大なり小なり行っているのだけれど、影に日向に言及しているところに注目すべきである。例えばお疲れ様会(影)では、ひぐらしが「舞台」であり、登場人物は「出演」しているという言い方をされるし、祭囃し編(日向)においては色々なキャラの組み合わせなどを楽しむ「カケラ遊び」の話が出てくる。これらは責任逃れや二次創作の煽りともとれるが、仮にそのような狡い意図があるにしても、プレイヤーが想像することに対して強い自覚を持っていること、そしてそれを自ら提示したことは確かなのだ(※)。


まとめよう。
イベントCGが存在しないことによってプレイヤーの想像の余地が広まるのは疑いないが、単にCGがないのではなく意図してそうしたのであった。そしてその意図とは、(推理は言うまでもなく)想像する行為自体が症候群に繋がりうるものだ、という主張の暗示に他ならない(本編で言う「ルール」、あるいは園崎家のブラフなどもその一例である)。またプレイヤーが想像することについて作者が自覚的であったのは、ひぐらしを「舞台」として様々な物語が生まれうると提示した(カケラ遊び)、つまりプレイヤーによって各々の「異本」ができることを自ら述べたことからも明らかである(罪編TIPSの「悪魔のシナリオ」における宇宙人説などが公式掲示板からの引用を含んでいることも想起したい)。以上のように、イベントCGが存在しないことは非常に重要な意味と効果を持ち合わせていたと言えるだろう。



一応「読者参加型」という言い方もあるが、その言葉が与える印象は「想像≒症候群」という意識を覆い隠してしまうような気がする。また、ひぐらしがそのような意図をもって描かれていることを思えば、私がまず作者の意図に注目することや、感想について「なぜそう思うのか?」と自分の願望(求めるもの)や不快感(忌避するもの)に目を向けるようになったこと、そしてそれ以降ゲームレビューを書くようになったのは必然だったと言えるだろう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ひぐらしPS2版の感想など~暇... | トップ | マッチョで時を超えろ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひぐらし」カテゴリの最新記事