情報への強迫観念~空の自己と安易な一般化~

2007-11-28 17:21:56 | 抽象的話題
今日、私達は数多くの情報にさらされている。とはいえ、人間の処理能力などたかが知れており、実際には無数のガラクタが頭の中に集積していくことがほとんどであるように思える。それはある意味で知りたくなくても知らされている状況であるが、一方で世間は情報が与えられているという理由でもって、こちら側に知ろうとすること・知っていることを要求してくる(その主体が確固として何かではなく、そういう「空気」でるところが始末に終えない)。その結果、私達(特に社会人)は否応なく情報を仕入れざるをえないのだが、処理能力の限界を念頭に置けば安易な一般化と忘却がはびこるのは必然的だと言えるだろう。


外界の情報に追われることは、上記のような問題を引き起こすだけではない。内側、つまり自分自身を見つめる時間と余裕を喪失させる。このような状態が続けば、誰に強制されたのかわからない忙しさと茫洋とした不安の中で、いずれ精神を病んでいくのは避けられない。


では、そうならないためには何が必要なのだろうか?まずは(情報処理能力という点で)自分の限界を認めること、そして情報収集への強迫観念から逃れることが重要である。しかしそれではあまりに漠然としているので、そもそもなぜ情報収集への強迫観念(=話題を知っていなければならない)などという奇妙なものが生まれるのかを考えてみよう。その一つは仕事上の必要であるが、その他に会話の材料になることも重要であるように思える。それは例えば企業の不正やタレントの動向などについての知識であるが、中にはお笑い番組を見ていなくて話題に付いていけなかった、といった経験をした人もいるのではないだろうか。そういった状況を避けるために人は情報を集め、テレビ番組を見ざるをえなくなるわけだが、だとすれば重要になってくるのは距離感だと思われる(テレビ番組そのものは嫌いではないが、それに追われるのは愚の骨頂だと思う)。とにかく話題についていければいいのなら、ニュースをとりあえず耳で聞き流すなりネットでさっと確認するなりして、「~ということが言われていた」「…ということを聞いた」と、あくまで情報であって事実でないことを意識しつつ、ストックしていけばいい。あとは、話題が出てきた時にむしろ自分がよく知らないことを利用しつつ相手に質問するなどして、会話を組み立てていけばよい。


こうして情報収集への強迫観念と時間の浪費を免れることができたなら、次は内面に目を向ける段階である。その際に大事なのは、具体例を積み上げていくという手法を用いることだ。というのも、あまりに枠組みを押し付けられることに慣れた私たちは、意識しなければ演繹的手法(その最たるものが血液型人格)を安易に用いて自己を型にはめ、それで安心しきってしまうからである。では、具体例を積み上げていく手法とはどのようなものか?このブログでは何度もそれを行ってきたので詳しくは繰り返さないが、例えば「義務感を嫌う心」「ニ連休と心の余裕」という具体的事例の積み重ねから、私は「縛られることを嫌う」傾向を持っていると考えられる。またかつての無関心やその源泉(いずれ書く予定)、さらには同性愛への嫌悪がどのような基準に基づいているかなども、具体的な事例から構築していったのであった。こうして、自己の特徴が帰納的に判明していくとともに、自分が許容できない領域(私はよく「境界線」と言う)もまた明らかになっていくのである。


このように話すと、内的世界の追求が優先され、外界への無関心を助長するのではないか、と反論する人がいるかもしれない。なるほど無関心を問題視する点では一理ある考えだ。しかしながら、そもそも自分の立ち位置を知らずして外界への意識づけをしたからといってどれほどの意味があるのだろうか。既述のように私たちは情報の洪水の中に生きているわけだが、情報とはほとんどの場合無色透明ではありえないし、何より私たち自身がすでに何がしかの色に染まっている。ゆえに、「情報の出所や内容をよく吟味する必要がある」というありふれた忠告はまことに正しいのだが、所詮そのレセプターである自分を知らずに片方だけを考慮したところで何の意味もなさないのだ(※)。内面をないがしろにして外界で流れる情報の内容のみを云々するのは、仕事で言うなら現状の売り上げを知らずに年度の予算を組む愚行に他ならない。ゆえに自己の探求を優先させるのは当然のことであり、もし忠告をするなら、「そこで止まらずに外界にも目を向ける必要がある」という内容であるべきだ。


外界との繋がりに追われることは、とにかく情報を集めることを優先する結果に終わる。それは情報への吟味が甘くなり、安易な一般化と忘却が身に付いてしまうのはもちろんのこと、内面に目を向ける余裕も奪ってしまうのである。情報量が少ないことを恥じる必要はない。限られた情報であっても、それに対して自分が示した反応、つまり憤った、喜んだ、悲しんだといった具体的経験を積み重ね、そこから自己を帰納的に構築する作業こそが、最も重要なのである。そしてまた、自分の反応に基づいて類似の情報を調べる行為が、色々な情報を広く浅く知るよりはるかに価値があると私は思うのである。



少なくとも今までの私の経験では、情報に関して何か言われるとき、受け取り手の意識という側面が強調されたのを聞いたことがない。これは奇妙な、非常に奇妙な事実であると私は思う。
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