げんきな日本論:他国の枠を通して見る江戸時代の社会構造と思想

2019-06-24 12:32:45 | 本関係

 

当時の文脈に立ち返って日本の社会構造を考える、また愉しからずや。
というわけで、今日ご紹介するのは橋爪大三郎と大澤真幸による『げんきな日本論』の発売記念で行われた対談。

 

そもそも保守とは何なのか?という話を先日取り上げたが、人間理性への懐疑に基づき漸進主義を取るその立場には、人間の蓄積してきた叡智と失敗、すなわち歴史を含めた広範な知識と分析的思考が必要不可欠である。「人間理性に懐疑的な姿勢→情緒的な面ばかり重視する」と捉えて戦前の熱狂的国体論者や戦後の思考停止的護憲派と同一視するのは起こりがちな錯誤であって、むしろ真逆でなければならない。そして革新的、ないしは左派的主知主義と異なるのは、知識の涵養を重視するとは言っても、それに基づく社会の分析と制度設計を正しく行えばユートピアが現前するなどという発想はしない、という点である。その意味で「永遠の微調整」という中島の言葉は、(少なくともバーク的な定義上の)保守の性質を端的に表していると言えるだろう(ちなみに過去を理想視するのは復古主義者であり、保守ではない)。

 

さて、以上のような観点から言っても、今回の対談は欧米の時代区分と大陸由来の朱子学という日本とは異なる二つの軸を用いつつ、当時の日本社会がどのようなものであったか、また当時の知識人がどのようなことを考えていたかを照射する興味深いものと感じられた。なお、今述べたことに関連するが、冒頭で「当時の文脈に立ち返って」と書いたのには二つの意味がある。

1.
欧州の時代区分をそのまま当てはめていくのは賢明ではないが、(ただ拒否するのではなく)それを準拠枠としつつ、どう日本の特徴をあぶり出していくのか。

2.
江戸時代には近代化を可能にするどういう要素があったかというような「近代から逆算する」だけの視点で見ると様々な要素を見落としてしまう。

 

1に関しては、この中で中国の例は出てこないけれども、たとえば北宋は常備軍と官僚機構を持つ点で近世的だが、中世的要素も見られるため、これをどういう時代区分に落とし込むべきかは結論が出ていない・・・といったこともあるので全く同意見である(これと対照的なのが、先にリンクを貼った中島岳志の講演にも出てくる、マルクス主義史観をそのまま当てはめて満足するような手法だ)。また銃火器(主に鉄砲)の導入による軍事革命と社会変化がヨーロッパでは生じたが、それが日本では起こらなかったのはなぜか、とする視点も興味深い。

 

2についても同感。例えばベラーのような視点で、日本はなぜスムーズに近代化(資本主義導入・富国強兵)が可能だったかと考えることは重要だが、それだけではこぼれ落ちるものも多いだろう。また、私は日本人の無宗教について興味があって調べているが、それに関する言説は「今どうしてこうなってるか」という結果からの逆算ばかりのように見える。たとえば「日本人はシンクレティズムを土台とする」とか、「日本人は多神教だから」といった理由でそもそも特定の宗教への帰属意識がない(から欧米的な視点で無宗教だ何だと言っても意味がない)というような言説がしばしば見られる。日本で言えば仏教導入に際しては殺し合いまで起こったわけだし、戦国時代の一向一揆や江戸初期の島原の乱はどう評価するのか、政府が寺請制度というシステムによって仏教徒たることを強制し、それに反乱が起こらなかったことをどう考えるのか、明治維新の神仏分離令に際して、命じられてもいない廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた(本動画にも登場する国学や水戸学とも関連する)ことをどう理解するのかetc...

といった具合である。要するに、日本の歴史に目を向ければ矛盾する要素が多々見受けられるし、それはちょっと考えれば思いつく程度のものであるから、そこに目を向けないのは「神の国」などと言ってわかった気になっている思考停止(ホブズホウム的に言えば、「作られた伝統」を素朴に信じ込む、というところか)と同類ではないか、と感じられる。また、「多神教→無宗教」という発想はインド(ヒンドゥー教)という反証がすぐに出てくるわけで、要は日本以外の物差しを導入すれば、その言説の奇妙さは簡単に理解されるところだろう(まあ井上毅製作の「神道=無宗教」よろしく、「ヒンドゥー教=無宗教」とするインド政府の見解を無邪気に肯定するというのなら話は別だが)。

また、先に述べた日本史における事例を用いた反証に関して、権力闘争や貧困問題であり宗教とは違うのではないか?といった意見が出るかもしれないが、キリスト教で言えばカトリックの公会議、聖職叙任権闘争、フス戦争、ドイツ農民戦争、シャリーアと政権の正当性など、他国の例を引けばより容易に理解されるように、宗教は政治や社会と密接に結びついていることがむしろ当然なのであって、それをメンタリティ・個人の問題として理解するようになったのはデノミネーションの影響にすぎない(ちなみに、東欧に広まったギリシア正教の皇帝教皇主義=聖俗のシンクロニシティと、戦後東欧の共産化&党首の神格化の類似性を指摘する研究もある)。

要するに、日本人の(無)宗教を語る時、奇妙に思えるくらいそこでは「歴史的変化のダイナミズム」というごくごく当たり前の視点が欠落しており、その意味でも今回の対談で出てくる「近代から逆算するのではなく当時の文脈で考える」という姿勢は極めて貴重かつ重要な態度と言えるだろう。

 

・・・という具合で実例を交えて書いたので長くなったが、彼らの対談に見られるエートスは、もちろん日本についての最終解などではなく、それをよりよく理解するための出発点として非常に参考になると思った次第である。


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