GWのお供に:住吉雅美『あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン』

2022-05-03 10:45:00 | 本関係
「このはし渡るべからず」という御触れを見て、ある坊主が「じゃあ真ん中を歩いて渡ればいいじゃん😀」と言って渡った・・・


というのは一休さんのとんちエピソードとして有名だが、これを聞いて一休の行為を自分勝手な解釈で(足利義満の)法をねじ曲げた違法なものだと非難するような意見には今までお目にかかったことがない。まあフィクションだしそんな議論は無粋だという認識かなとは思うが、あえて言語化すれば、「明らかに嫌がらせのための悪法なのだから、順守する必要なし」ということになるだろうか。ともあれ、こういったお話にも立法意思、解釈論、法の正当性といった諸問題を見て取ることができるし、あるいは「悪法には従うべきか?」といったソクラテス的な問いにもつなげることができるだろう(まあ対応の仕方は、悪法を解釈ですり抜けて立法者に一杯食わせた一休と、あえて悪法に従うことでその異常性を社会に訴えたソクラテスではかなり違うが)。


・・・という導入で始めてみたが、本書は「法哲学」といういかめしい名前の学問を、身近な事例を問いに立てて読者の興味を引き、さらにマンガなどの登場人物や事件の具体例を出してわかりやすく説明している(大学での講義録を元にしてるだけに、興味を持ってもらえるような工夫が様々に見てとれる。これはディスカッション形式でこそないが、戦略はマイケル・サンデルのハーバード白熱教室に似ている。余談ながら言っておけば、抽象的な議論を聞くだけで様々な具体例を想起し、さらにそこから話を広げることができるのは、ある程度限られた人間だけである)。


このように具体的な問題設定と理解につなげる工夫をした上で、ケルゼンとハートの立場の違い(法をどのようにとらえるか・悪法には従うべきか等)、ロールズの公正(リベラリズム)とノージックの自由至上主義(リバタリアニズム)の対比、ベンサムやミルの「最大多数の最大幸福」が持っていた解放の戦略性とそれが少数派抑圧に陥る危険性などを、わかりやすく説明している。


その意味で、本書は法哲学に関する良質な入門書であるだけでなく、政治哲学や倫理学、にも興味を広げる契機を作り出してくれるものと思う。


唯一あるとすれば、法の正当性を問う章において、グロティウスに触れてもよかったんではないかと思う。つまり、スペインという国が自国の法律に基づいてプロテスタントを迫害した際、彼はキリスト教の価値観(隣人愛)を持ち出し、より本質的な法(自然法)の観点からスペイン国内法より上位の法、すなわち国際法の元になる規範を訴えたわけだが、たとえばとある独裁国家が非人道的な法を制定したのに対し、国際法の観点から批判し変更を要求するのは主権との絡みも含めて、どのような評価になるのか、といった話を入れてもよかったかもしれない(まあこの手の話は、異国の事にはやたら居丈高に要求するのに、自国のことは主権や特殊性を主張して居直るダブスタ論者がしばしば見かけられるので、単に相手を非難する材料に堕してないかに注意する必要があるが)。


以上。


【破棄した元の導入】

元はこっちで書こうと思ってたが、これじゃ本書の魅力を伝える上で逆効果じゃん😵と思い破棄した次第。

およそ「法」とか「哲学」と名のつくものは、日常から遠く抽象的で小難しいと感じる人が少なからずいるように思われる。


しかし、例えば子が親を殺す(尊属殺人)と一般の殺人より罪が重くなる法が1973年に違憲とされるなど、法の妥当性や正当性というものは(当たり前だが)普遍的に担保されているものではない。


今述べた他にも、国内法と国際法が矛盾する場合、どちらに正当性があるのか?たとえば独裁国家が非人道的な法を施行した場合、その改変を求めるのは主権の侵害か?あるいはそもそも、グロティウスがスペイン・ハプスブルクの法を超える=より一般的・普遍的な法を志向した歴史的背景etc...といった問題系。殺人事件や煽り運転で取り沙汰される、量刑の妥当性。PTA参加は義務なのか?そこに参加しない場合不利益を被るような構造は妥当か否か?あるいはそれを法で明文化するのは妥当か否か(どこまでが不文律であるのが合理的か)・・・とまあ様々なレベルで完全な合意はなく、今も議論は行われ続けている。


以上のような具合で、実は様々なレベルで法律やその設定の仕方、あるいは法に対するあるべき態度の議論(悪法もまた法であるのか?法と道徳は分離すべき?)は日常にも関わっている。


まして、これから(情報や人の流動性が低くならない限り)価値観の多様化を止めるのは難しいと予測されるので、いわゆる暗黙知や不文律といったものは通用しにくくなり、明文化の流れが不可逆となる(教育関係のNPOで働いている中学時代の友人と飲んだ際に、たとえば発達障がいの職員も社会に包摂していくに当たり、徹底したマニュアル化が重要で、実はこれがそのまま外国人労働者にも有用だという話が出たことがある。とはいえ、ではそれはどこまで明文化するのが妥当なのか?あるいはもうそこまでいくと機械化した方が速いのではないか?云々。そこでは数量経済学の話題なども上がったが、いずれ機を見て記事を書きたい)。


その中で改めて、歴史的な議論を踏まえながら、法というものをそもそもどのように捉えるのがよいのか?というのを入門的に問うているのが本書である。

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