月山富田城の周辺:像、川、墓

2024-09-02 14:57:49 | 山陰・山陽旅行



さて、何度か連続した月山富田城の紹介もこれで最後。今回は周辺で


まずは、月山富田城前の飯梨川対岸にある尼子経久の像。京極氏を支える出雲の守護代から周辺数ヵ国を支配するまでに勢力を拡大した「謀聖」である。


ただ、軍事行動や調略が目立つものの、実際には出雲本国でさえ自社勢力が強く自立傾向にあり、その支配さえも盤石とは言えない薄氷を踏むようなものであった(後述)。また、10年以上にわたり追放ないし雌伏の時を過ごしていた期間もあり、派手さの割に陰の部分もかなり多い人物である。






戻り際に実は川を歩いて渡れそうだと気付き、暑さで疲れてるのでショートカット・・・







いやこれ、飛んで渡るにはギリギリな感じじゃね?まあでも短パンだしサンダルやからね・・・


それにここで退いては武士の名折れ。ワシが男塾塾長仙石秀久である(゜∀。)!


と戸次川を渡河した時の勢いで飛び石していくが、





いや飛べてはいるねん。ただな、気合入れすぎて飛ぶときの水しぶきで短パンが見事に水浸しになったんぞなもし。


ま、まあこの暑さだし、歩いてれば乾くっしょ(・∀・)


で、このまま乗車する訳にもいかんので、少し周辺を見学。





月山富田城に複数の登城ルートがあると書いたが、これもその一つ。






こちらはまた別の登城ルート。「尼子興久の墓」の文字が見える。少し進むとささやかな墓所が現れた。






「尼子」というのは来訪者にわかりやすくするためと思われ、正確には「塩冶」興久である。塩冶氏は出雲源氏の出で鎌倉時代には出雲守護も勤めた由緒ある家柄であり、当時も出雲西部に強い地盤をもっていた。また、興久の名は大内義興の偏諱であることから、有尼子経久の外交の有り様がよく表れた人物と言えるだろう。


この三男が出雲で反乱を起こしたことで経久は窮地に陥り、ここで大内が塩冶(反尼子)型をバックアップしていたら、尼子はここで終わっていたかもしれない、というのはすでに述べた通りだ。


なお、案内書きには反乱の動機付けとして所領分配の不満に言及しているが、これは後世の軍記物『陰徳太平記』による記述をもとにしていると思われる。


なるほど興久の頭の中など知りようもないので、そういった要素の有無は完全にはわからない。しかし、出雲における塩冶氏や多賀氏らなど反尼子の機運(度重なる外征に対する国人たちの不満など)が強く、また当主というものがあくまで家人たちの合議・合意によってその立場が維持できていた以上、これはあまりに短絡的、あるいは英雄主義的な見方と言わざるをえない。


戦国時代というと「下剋上」のイメージが強く、とするなら身分制社会の反対の実力主義で、かつその時代を己の才覚でのし上がった武将たちのキャラクター性に注目が集まりやすいが、実態はそんな単純なものでは全くないのである(以前紹介した山田康弘『足利将軍たちの戦国乱世』などは、そういった時代観や権力論を再考する上で参考になるだろう)。


歴史系の展示を見る時、遺跡や遺物自体を観察するのもおもしろいが、それがどのように紹介されているのか、そしてその背景が何かまで考えてみると、さらに興味が深まるなあと改めて思った次第。

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