どうも前回の続きということらしい。
神サマは戯れに作って、もがく様を鑑賞しているのかもしれんぜ。まあそんな神サマいらないって言うだろうけどw「生命を与えてくださったのだから慈悲深い存在だ」てな考え方もあるが、それは生きる意味が欲しいがゆえの願望ではないのかね、な~んて(「世にも恐ろしい日本昔話:さるかに」)。
まあ要するに未規定であるって話なんだけど、初期ギリシア的な発想ではなく、未規定を埋め合わせる存在として超越者が必要とされるのであるならば(→「神の罰の合理性」)、超越者自体が未規定なんて状態はありえないとも言えるのだが、はてさてそこまで合目的的というか突き放した考え方をできているのかどうか。
[原文]
(「ご都合」という解釈に対して)
ところで、前回述べた異形たちによる事態の解決(=堂島勢力の殲滅)に対し、「ご都合」という批判が出るかもしれない。しかしシナリオや演出の点から、私はその見解に反対である。
まず第一に、異形たちによる堂島勢力の殲滅は、基本的にBad・Happy問わず起こっている。異形たちはHappyルートのみ(言い換えれば主人公たちの都合のいい時にだけ)現れているのではない。そういった状況から考えれば、異形たちが暴れまわる中でどう立ち回るかということが、主人公たちには要求されているのだとわかる。それゆえ、異形たちの蠢動によって他律的に事態が解決されたという見方は成り立たない。主人公たちの自律的な行動があってこそHappyエンドを迎えることが出来るのである。
もう一つの否定要素として、冷厳なBadエンドの内容が挙げられる。そこにおいては、学校が廃校になり、ヒロインは死ぬ(or行方不明)という散々な結末が用意されている。しかもその中身は、自殺(穂村)、大量殺人後失踪(雨音・藍)、死者の井戸に飲み込まれて死亡(文乃)、降霊後に周囲の人間を飲み込んで黄泉の世界へ帰る(明日菜)、というように悲惨なものばかりである。このようなBadエンドがあるからこそ、逆にHappyエンドは素直に喜べる構造になっていると言える。
(問題のある点)
民俗学的要素をもう少し詳しく描写して欲しかった。例えば、雨音や穂村が特殊な家系の後裔であるという説明がなされているが、それだけで終わってしまっている感がある。また、斎賀が儀式を知った経緯や山の祠の説明が欲しかったと思う[もっとも、本編中にやたら学術的な内容を入れると全体のバランスを崩す危険性があるし、等身大の高校生という描き方から、そういう内容には詳しくないほうが自然というのはあるが]。
また、もう一人のキーパーソンであるべき明日菜の扱いがぞんざいなのもマイナス要素。彼女が何を思って儀式に参加し、それがどのような結果を招いたのか、という部分がなおざりにされている印象を受ける。もしそういった視点での明日菜シナリオであったならば、儀式を行う側(=文乃)と、直接的には関わらずその影響のみを受ける側(=悠夏、雨音)という二層構造の中間を描くこととなり、事件の全貌をより立体的に見せることができたのではないだろうか。(了)
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