知識社会学=環境あるいは歴史的背景と思想分析の件。星座の運行と時間感覚。天体観測と自然科学。万物の根源の探究。創世神話。
江戸期の仁政イデオロギーと農民一揆(室町期や江戸末期との差異に注意)。あくまで農具を持って異議申し立てを行う(武装蜂起=武士の支配の否定ではない、というパフォーマンス)。八紘一宇とアジア主義、大陸進出(欧米中心主義からの脱却としての思想と、大陸進出の理論化・正当化としてのニーズ)。
チェザレパピズモ(皇帝教皇主義)の東欧と東側諸国に広がった共産党一党独裁体制(ソ連との近さやその影響力という要素は?)。
シチリアという文明の交錯地帯で育ったフリードリヒ2世の宗教的寛容性。イスラームにおける「妻は四人まで」の戒律と異教徒とのジハード(cf.バドルの戦い)による寡婦の話。
細菌は見えない→疫病は「神の罰」。産褥熱の件。狐憑きと精神病(あるいはフーコー『狂気の歴史』)。家系図捏造から見る、セルジューク朝とオスマン朝の継承理念とその差異。
プラグマティズムの起源。アメリカ的な実用主義。しかし、南北戦争という形で正義をぶつかり合わせた結果、合衆国史上最大の死傷者を出すことになった。この反省、言い換えれば「手打ち」や「断念」の模索が、思想的には真理には佝泥せず機能主義を重視するプラグマティズムを産み出すことにつながった。もちろん南北戦争には北部と南部の経済構造の違い、あるいは連邦主義と州権主義の違いという対立もあり、理念やら正義という観点だけで語ることはできない(ちなまに、南北戦争は1863年に北部勝利で終結し、1869年には大陸横断鉄道完成→西部の開拓が急速に進み、1890年にはフロンティア消滅→マッキンリー時代のカリブ海政策・門戸開放運動やローズヴェルトの棍棒外交となる)
日本における蝉の観念。「空蝉」→儚さの象徴(すぐに死ぬから)。しかし、古代中国ではむしろ再生の象徴として璧になったり皇帝の肖像に描かれる。なぜか?地界が死者の世界とみなされ、そこから出でて羽化する様が死の世界からの甦りと観念されたからだ(夜空に消えては表れる星座の運行も想起)。
馬鹿げていると感じるだろうか?私はそう思わない。猫の残虐さやイルカの残忍さから目を背ける。「可愛らしい」という先入観によってイメージが固定され、都合のよい現象は後景に退けられてしまうのだ(ハロー効果・認知バイアス)。人間が対象のどこに注目するかで、同じものを見ているのに全く異なる、あるいは真逆の意味合いすら持ちうるのである。かつての人々の想起の仕方(マンタリテ)を軽視するようなら、今の我々がやりがちな誤謬についても無防備となってしまうだろう。
当時のヨーロッパの数学。直観主義と形式主義。ゲーデル。ポパーの反証可能性。科学によって全てが明晰に見通せるのではないか?という観念がまだ生きていた(たとえカントやソシュールの仕事があったとしても)。後にゲーデルやハイゼンベルクの不完全性定理。そもそも無矛盾というものが存在しえない。そこに加えて観測者の限界。時代からしてもマンハイムが彼らと交流し、そういった知見を渉猟していたとは全く思わないが、さりとて「時代の空気感」については肌で感じ取っていたのではないか?
『イデオロギー~』への反論・反発。中世以前を単純化した記述にも見える。アドルノ・ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』。古代ギリシア・「神話はすでに啓蒙である」。あるいは中世に着目したホイジンガの『中世の秋』。あるいはヨーロッパ中心主義への批判。『野生の思考』。ヨーロッパ的発想の分析・解体→デリダの脱構築。無意識の前提にしているもの。例)アリストテレス→唯名論→イギリス経験論(帰納的)とプラトン→実在論→大陸合理論(演繹的)の対立。これを統合したのがカント。
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