goo blog サービス終了のお知らせ 

コスパ思考を突き詰めた先に:「老害」の構造、身体性、人生の未規定性

2025-04-17 12:14:13 | 感想など

 

 

ほう、東浩紀が語る「コスパ思考」か、どんなアプローチになるのかお手並み拝見・・・と対談を見始めたが、これはおもしろい!ちょうど『25年後の東浩紀』の書評を少しずつ書き始めていもいたので、今回はこの対談についての感想を述べてみたい。

 

「コスパ思考」というものが前面化する背景については、情報化社会によって「全て先が見えるような気がする」という点が指摘されており、その顕在化が「ファスト教養」「コンテンツの早送り消費」とされている(いわば予測可能性の中で、どう効率よくそれを消費するかという部分に重点が置かれている)。で、こういったスタンスについて、例えば教養主義の側面や、スローライフという観点から批判する言説もすでに数多くあるのだが、東の話が興味深いのは、そういう二項思考ではなく、もう一度前提から考え直してみようというパラダイムシフトを相手に促しており、しかもその話し方が極めて巧みである点だろう(さすが尊敬する思想家としてソクラテスを挙げるだけのことはある)。

 

具体的には、世間一般では(デジタルネイティブである)若年層のコスパ思考と、それに対する中高年の側の警鐘という世代間の差違を軸にした二項対立図式で話が展開することが多いのだけれども、その点について、むしろ人は年を経るごとにどんどんコスパを追求してコスパが良くなっていく生き物だと述べ、まずその思い込みを解きほぐすところから始めている。

 

これは単に「まあ俺たち中高年もそういう所があるのさ」というどっちもどっち論ではなく、そもそも中年はこれまでの経験を元に、自分の好きな事、できる事・できない事がわかってきているので、自分の領域を広げなくなるよと言っているのである。それを良く言えば「成熟>成長」という表現になるのだが、要するに冒険をせず、予測可能性の範囲でしか行動を選択しなくなるわけだから、それって完全にコスパ思考そのものやん、て話である(ちなみに中高年になっての行動は単に趣味嗜好の話だけじゃなくて、仕事の領域拡大などで色々な人を巻き込んでしまうがゆえに、経験則に基づいて既知の・堅実な手法を選択せざるをえなくなる、といった側面にも言及している)。ちなみにこの話がピンと来ない向きには、宋世羅のこの動画が話としてわかりやすいのでぜひご覧いただきたい。

 

 

 

 

で、そこからさらに踏み込んで、「老害」と呼ばれるものについて、そう言われる中高年自身はコスパがいいと思っている(やり方である)ことも話しているが、これは非常に重要な指摘だろう。どういうことか?例えば人や物の流動性が低く、社会の変化がゆるやかな時代であれば、こういった中高年のスタンスは合理性が高い場合も多かった。というのも、社会変化の度合いが小さいため、依然と同じやり方がそのまま通用する部分が大きく、ゆえに中高年の経験知やノウハウの蓄積が「年の功」とか「古老の知恵」のような形で役に立つ可能性が高かった=共同体のコスパ上昇に貢献したからだ(もちろん、そこに儒教的価値観も背景にはあるが)。

 

しかし現代社会では事態が全く逆で、技術的部分(ChatGPTなど)のみならず規範的部分(セクハラなど)でも社会変化は急速な勢いで起こっているために、旧来のやり方を是とする態度は、現状分析や適切な選択を行う意思の欠落をそのまま意味する上に、大抵の場合は立場・年齢を背景に上から目線で発言するケースも多いため、その態度をまとめて「老害」と評され、忌避されることになりやすいのだ。言い換えれば、若者の「コスパ思考」などと揶揄されるが、実際のところそれは中高年の方にこそ鋭く指摘されるべきものなのである。とはいえこれをそのまま言葉にしても、わかっている人間は始めからわかっているし、逆に気付かない人間はむしろ「俺の何が問題なんだ!」と怒り狂い始めるだろうから、それをコスパに固執する中高年=老害という話に終始するのではなく、そこから脱却しようとする彼・彼女らのムーブとして「なぜ中高年はそばを打つようになるのか?」というユーモラスな事例を用いており、柔らかく相手に浸透させる非常に巧みな表現方法を用いているなと感心した(なお、この事例はキャンプの話と同じでいわゆる「身体性」の重要さというテーマにも繫がるわけだが、ここでは詳細は省く)。

 

これを元に東は「そもそも若い時は何が自分に合っているかわからないし、よって何をやっても結局コスパが悪いし、やる・やらないに周囲を巻き込む要素も少ないんだから、好きにやればいいんだよ」と述べている。まあ否定してみたところで、結局さっき述べたような世代間対立の罠にはまり込むだけだし、それだったら、北風と太陽ではないがまあ気にせず色々やってみなよと促した方が、結果として気付く人間は気付くだろうという発想で話しているように感じられた(というか、ここで「著名な人もやっぱりコスパ思考は良くないと言っているし、コスパ思考やめとくか~」という安易な発想自体が、リスクヘッジを土台としたコスパ思考に絡め取られている、とも言えるように思う)。

 

こう書くと放任・突き放しのようにも聞こえるかもしれないが、動画を見ればわかる通り、「こういう風に考えてみたらどうだろう?」「~って実はこういう構造なんだよね」というのをフランクに話している様子からもわかるように、むしろ極めて相手に寄り添った語り方だと言えるのではないだろうか。

 

さて、今まで述べた内容からすると、旧来の世代間対立的な語りを回避しつつ、まあまずは言われていることを気にせずあれこれやってみなよと話している点で、非常に日常的・実践的な話であるように感じられると思うが、ここでさすがだと感じたのは、そのようなレイヤーでの語りと並行してコスパ思考が原初的に抱えている限界についてもきちんと述べている点だ。

 

これは落合陽一との対談でも触れているが、要するに、「コスパを突き詰めれば、生きる事自体が無駄だという結論になるのではないか」という話だ(実はこれは若年層の自殺率上昇という話と関連しうる可能性があるが、別の機会に取り上げたい)。なるほど、学業で成功するために~するとか、仕事で成功するために…する、理想的な家庭を築くためにーする・・・というのはわかった。だけど、そんなにリスク計算しながら人生設計してまで何で生きなければいけないの?

 

そもそも人間という存在は、認知科学や行動経済学など諸々の知見からもわかる通り、必謬性を背負った存在である。つまり、計算したところでその通りには決していかないし、仮にかなりの程度予定通りにいったとしても、ある日突然不慮の事故で人生が強制終了することもあるし、それを予測することはほぼ不可能と言っていい。そこで当然のことながら、「それでも必死に計画を立てて人生を生きようとすることは、今ここで生きる事を止めるより確実にコスパがいいと言える根拠は何なのか?」という話になるのではないか(ちなみに東はここまで抉った話は本編でしていないので悪しからず)。

 

念のため言っておくが、これは間違っても自裁の勧めなどではないし、また考えて答えが出る話でもない。端的に言うと、「生きる意味とは何か?」的な話として、不可知論(アンチノミー)の領域になるのだが、東がほのめかしているのは、要するに我々は無根拠に生きていて、また人生は偶然性(計算通りにいかないこと)の連続であるのに、それを計測可能なものとしてコスパ思考で乗り越えられると思っていること自体無根拠で浅はかではないかい?ということだろう。

 

別の言い方をすると、自己の行動だけでも色々な不確定要素や失敗が将来いくらでも見込める状況の中において、さらに無数の人間たちの共生の中で社会を構成している以上、リスクと予測不可能性だらけであり、そんなにコスパが悪いものであれば、今すぐやめることが「善」ということになるのではないか(あるいはどうしてそういう発想をしないのか)?とも言えるだろう(この話がピンとこない向きには、「2001年宇宙の旅」を想起されたい)。こういった「生きる理由の未規定性」(測定不可能性)という根源的な部分にまできちんと踏み込んで、「コスパ思考」なるもののそもそもの浅はかさにもきちんと釘を刺している点において、東の提言は単なる日常的・実践的なレベルにとどまっていない点も非常に重要な部分だと感じた。

 

なお、この「生きる意味」に関しては、(すでに何度か書いたことはあるが)結構取り扱いの難しいテーマなのでいずれ機会を設けて書いてみようと思うが、個々人が勝手に「「私には生きる意味がある」と思ったり、あるいはそう言ったりするのはもちろん自由である(まあ自分を神だと思うことですら、個人の自由なのでね)。ただし、それを「人間には生きる意味がある」と勝手に公理化とする人間がゴロゴロいる(のが困りものだ)という話である。別言すると、「自分は生きていて楽しい(から生きていたい)」とか、「俺は生きがいを感じる」といった極めて個人的な感想を抱くことはもちろんあるし、それを何ら止めるものではないが、それが人間一般の話に飛躍を可能にする、万人が承認可能な根拠を提示できるのだろうか(ヒューム並感)?

 

ここで誤解のないように捕捉しておくと、

1.生きる意味はわからない(測定不可能)

2.でも我々は現に生きてしまっている(端的な事実性)

3.であればどう生きるか(共生の作法の構築)

という話であり、今述べていることは絶望でもなければシニシズムでもなく、まして(意味のない存在だと)他者否定や他者攻撃を肯定するような発想でもない。むしろ、各々の存在が無根拠であるからこそ、何人であっても、超越的存在でないことはもちろん、その間に優劣も存在しない。そしてそのような個人が複数(多数)集まって社会を構成している以上、その運営には「赤信号=停止」であると決めるような、共生のためのルール設定(擬制)が必要不可欠となるし、またそこには調整方法として、なるだけ残酷さを回避するようなやり方が求められるのである(まあこれは近代社会が「人権」という概念・擬制=決め事を元に構築されているという事情とも深く関わっているが、その近代にもフーコーの『狂気の歴史』や『監獄の誕生』、あるいはフロムの『自由からの逃走』が描いているように、極めて抑圧的・排除的な面が観察されたことには注意が必要と言える)。

 

この点、以前の記事でローティの『1984年』・『ロリータ』解説に触れた動画を紹介しつつ、自分の世界理解を「個人ーリバタリアン、社会-リベラリズム・リバタリアンパターナリズム、世界ーカオス」だと書いたが、それは異常のような土台の上に成り立っている。もしわかりにくければ、ローティなどを中心とする「リベラルアイロニズム」の発想について『偶然性・アイロニー・連帯』などを読んでみることをお勧めしたい。

 

というわけで、東浩紀の語るコスパ思考について述べてみたが、それはコスパ思考の良い面・悪い面両方を考えるヒントとなるだけでなく、世代間対立のキャンセル、あるいは世界の未規定性の理解→それを一つの軸に体系化可能だと感じる幻想の否定といった具合に、様々な点で物の見方を振り返るきっかけも与えてくれる。また東の語り方自体も、ユーモラスな例示、話の深さ≒抽象度・具体度の選択、話し方の声色や身振り手振りなど、非常に参考になる部分が多いので、まさに「神回」と言っていい内容だったのではないだろうか。

 

以上。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« AI生成画像、商品としてのイ... | トップ | こういう風刺はおもしろいw  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

感想など」カテゴリの最新記事