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日本人の宗教意識:西欧との皮相的な比較を超えて

2006-09-24 13:24:22 | 宗教分析
日本人の宗教意識を研究するに際して」で書いたように、アジア諸国と日本の状況が大きく異なっていることを考えれば、そこを比較の対象にした本などが多く出てくるのが必然だと思う。しかし、実際には日本人の宗教意識や「無宗教」を述べる時に西欧ばかり比較の対照となるのはなぜだろうか?

その一つには、おそらく商業的な理由があると思われる。というのも、比較文化において一般人に最もわかりやすく、それゆえ興味を惹くのは日本と西欧の話題だからである。それゆえ、「売れる」本を作るためには日本―西欧という話題・方向性でなくてはならない。すると結局、日本人の宗教意識を扱う本でも西欧しか比較の対象にならないという結果になってしまうのだ。

ここからもう少し突っ込んで考えてみたい。そのように、日本―西欧という構図にはニーズがあり、一方でアジアとの比較は等閑視されている理由は何なのだろうか?思うにこれこそが日本人の意識の歪みで、要は未だに「西欧という親の子供」という(認識上の)立場から卒業できていないということである。人々が西欧との比較に専ら興味を持ち、ゆえにそういった視点の本のみが溢れている状況は、まるで親との差異を強調したいという(厄介なことにしばしば潜在的な)欲求を抱え、そこから自立しようと躍起になる子供の姿を想起させる。そんな潜在的な歪みを内包していれば日本と西欧の違いを強調した上で「実はこんな共通点もある」と付け加えるのが関の山であり、二項対立的視点という壁を超えることはできない(研究者やいわゆる「知識人」の中にも、この縛りに捕らわれている人が少なくないと思われる)。そんなことで宗教意識(とその変化)という厄介な代物の深奥に迫れるはずがないではないか。


より重要な比較対照はむしろ隣にあるのだ。例えば韓国についてだけでも、

1、彼らの宗教意識がどのようなものか。また日本人との違いは?
2、日本と違ってキリスト教が広まっている原因は何か(※)
3、日本と韓国の仏教の違い、また韓国で未だに四分の一以上が仏教徒である要因  の解明など
4、植民地時代の宗教政策とその影響の有無

といった問題が想起される。同じ仏教を信奉していた両国の現状がどうしてこれほど違ったものになっているのかを分析した時に、表面をなでるような比較を乗り越え、より深い地点に到達する端緒が得られるのではないか…そのように思うのである。この他東南アジア諸国やインドも興味深い比較の対象になるが、そういった国や人々との共通点及び差異の分析が、日本人の宗教意識解明に繋がっていくことであろう。



機会があれば別に書く予定だが、例えばマッカーサーは日本が無宗教ならないよう注意しており、キリスト教を国家神道の代わりするという構想もしていたという(阿部美哉の『政教分離 : 日本とアメリカにみる宗教の政治性』[サイマル出版]で読んだと記憶しているが、100%でないことを一応断っておく)。また終戦直後は数多くの新興宗教ができるという状況だったので、日本にもキリスト教が広まる可能性は十分にあったと思う。このあたりの状況については井上順孝『新宗教の解読』[ちくま学芸文庫]を参照。
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日本と違ってキリスト教が広まっている原因は何か (一粒の種)
2006-09-24 18:36:24
韓国が日本と違ってキリスト教が広まっている原因は何か?については、私も興味を持つ者の一人です。ぜひ、ブログ書かれたら、一粒の種まで連絡下さい。
返信する
返信遅れてすいません (ボゲードン)
2006-09-29 01:09:13
コメントありがとうございます。いつか書けたらすぐに連絡しますヨ。



ちなみに

申昌浩 『韓国的民族主義の成立と宗教 : 東学・親日仏教・改新教(プロテスタント)の分析を通じて』 国際日本文化研究センター



というのがあります。文献としての評価はわかりませんが、おそらく参考にはなるでしょう。簡単ですが、これで失礼します。
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