YU-NOエンディング批評~フラグメント1~

2012-04-11 18:15:07 | YU-NO

「YU-NOエンディング批評」シリーズも一段落して断片的な覚書を掲載する段階となりました。まあ屋上屋を重ねてもしょうがないので、そのまま掲載しまふ。

 

[原文]
さて、「YU-NOエンディング批評(要約版)」と「YU-NOエンディング批評の過程」で全体像は見えたと思うので、あとはその過程で生まれた断片を載せていきたい。なお、かなり話は前後しているが、あえて時系列順にするのでご了承いただきたい。なお、( )は元もとのカッコで、[ ]は現時点で付け加えたものである。


<YU-NOのエンディング>
敬語[で書く]、他の言説[をまず見てみる]。[YU-NOという作品は]語ることが余計だと感じさせるが、よく考えれば出てくる。哲学的すぎてたくやのエンディングには相応しくない印象を受ける。単なる印象?いや、[儀式のシーンで]執拗なまでにユーノを(父親として)助けようとしたたくやの姿あればこその違和感だ(ヒロイズムの対象化・相対化の意図もありそう)。父を超えるという図式的解釈はできるが、果たしてそれは彼に相応しいのか?むしろ[YU-NOを]連れ帰るが正しいように思える[現世編でも広大を「連れて帰る」と言っている]。もちろん、物理世界に帰ればまた[グランディアの]魂の解放のために自殺という輪廻を繰り返すことになるが。などと考えるていると、実は現世編の澪や神奈たちとのエンディングは異世界編の補完的内容であること気付く[日常性]。


[違和感、不満の原因…]感覚的には、要するにカタルシスの不在。プレイヤーもまた時の流れに組み込まれていくであろう、という輪廻的エンドの方がよかったのでは(永遠性と一時的、特殊と一般)?これは今だから言えることではあるが、こういう差異にエアーとの隔たりを見ることができるかもしれない(一方は唯一の家族・恋人との永遠なる世界の獲得であり、一方は破局)。アダムとイブはわかる。情念が不在のエンドはたくやにそぐわない。あるいは比較対照の広大なら…と思うが、彼でさえケイティアのためにという情念が突き動かしたのではなかったか[この辺は錯綜している]?内容そのもの[断片の統合といった意味・重要性]はわかるが、それはどこまでも「人間臭く」描かれているたくやのそれとしては相応しくないのだ。


この場合のカタルシスの不在とは、有体に言えば「肩透かし」とでも表現できるが、そこには期待しているもの(A)と期待にそぐわないもの(B)の二つが存在することは言うまでもない。以下では、その二つの輪郭に迫っていきたいと思う。(B)…静謐、アパシー[どっちかっつーとアタラクシアやろ]、宗教的、哲学的。A…家族、情念。

[エンディングで]やりたいことわかるが必然性・説得力なし。代案…あえてハッピーにする[この辺りはかなり誤解を招きそうな表現だ]。そしてそれがいつか終わるものであり(魂の解放)、たくや=プレイヤーも数多ある存在のうちの一つに過ぎないことを示唆しつつ、終わらせる。「死なない」主人公の将来的な死が暗示される形で終わる。


今となっては[傑作リストの中で]唯一高校時代にプレイしたゲームになった。エンディングの一つとしてならわかるけど、唯一のエンドとしては問題。たくや=家族の希求が強い。広大について「ぶん殴って連れ帰る」。神奈へのこだわり、セーレスやユーノへの愛情といった全体の傾向、かつ最後のユーノとのやり取りの内容(安易なヒロイズムという批判の回避?)→世界より家族を選ぶという思考。それを無視してでもあれにする意味はあるのか?真理を知るもの。輪廻から解き放たれる⇔卑近な世界で輪廻に身を任せる。本質的にユーノの状態がそれを許さん[=理系的な問題あり]と言うかもしれんが、ねじ曲げるも可では?


第一段は以上。今見返しても同じ事を何度も書いていたり、反論がそのままになっていたりとかなり錯綜しているのがわかる。ただ、「図式的解釈はできるが、果たしてそれは彼に相応しいのか」などから、違和感の根源は最初からある程度掴めていたらしい。なお、今回は一度アップしたものに近い内容だが、次回以降は未掲載のものになる予定。


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