YU-NOエンディング批評の過程

2012-04-03 18:08:51 | YU-NO

YU-NOエンディング批評」は完結したが、それを書く際に留意したことを説明した記事。なぜこのようなものを準備したかは、「フラグメント131」におけるひぐらしとそれへの論評を巡っての違和感と完全に連動するが、より詳細な話は「君が望む永遠~ヘタレ、埋没、凡庸~」の続編で扱う予定でいる。

 

※ネタバレだが、過去ログとしては「YU-NO~エンディングの持つ意味・効果について~」や「YU-NOエンディング批評結~日常への回帰とモータリティの提示~」などを参照。


(登場人物)
Y=ヨカノビッチ  U=ユーゴヴィッチ



何で旧ユーゴのサッカー選手デスカ?



YU-NOの最初の二文字にしようとしたら真っ先に思いついたらしいよ。



にしても古いなあ…まあそれはともかく、最近YU-NOの記事が多いよね。



いやはや全く予想していなかったくらいスゴイ分量になっちまって。いつもの事ながら驚くわい。げに恐るべしは違和感の萌芽。



まあだから書かないわけにはいかない、と。しかしYU-NOのことばかりだったからか、アクセス数も落ちているようで。



まあ全然タイムリーじゃないっつうかむしろ「古典」だからねえ。プレイしたことないどころか知らないって人も結構いるんじゃないかしらん。ひぐらしやうみねことは違うわね。しかも内容考察系で意図的に他と繋げないようにしてあるから、相当コアにプレイした人じゃないとまるでわからないというオマケつき。



そう考えると今の状況は自然だねえ。じゃあいっそプレイするように書けばいいんじゃねーの?



サターン版か「大人の缶詰」買いなさいって?サターンは確かに安くなってるだろうしPC版より断然おすすめだけど、それでも本体を買わなきゃいけないし、後者にいたっては昔のヤツの単なる移植どころか伏字入りで改悪されており、さらにはプレミアつきって始末だぜ。俺エルフの○徳商法の走狗になる気はないっすよ。まあリニューアル版が出るなら、よほどのことがない限り「買わないヤツはゴミだ!家畜だ!」とかいう勢いで宣伝するだろうけどさ(笑)。



そういう意味では不毛じゃねえ。まあこのゲームが傑作たる所以は何となくでも伝わったのかしらね。にしても、何でエンディング批評はあんなに長くなったのかしらん。



いつものことじゃん。



そうだけどさあ。やっぱり気になるじゃん。



そりゃあ違和感の萌芽からその源泉にたどり着いた段階で、エンディングへの違和感が物語の根本に関わると気付いたからだよ。だから、「単なる感覚じゃん」「結局好みの問題じゃねーの」といった形で批判を相対化されないように反論を色々考えながら進めていったからでしょ。



というと?



「YU-NOエンディング批評について」で、他の事例からすればむしろ自分がYU-NOのエンディングを好むであろうことを先に説明したよね。また「YU-NO:たくやの行動原理」でたくやの行動を具体的に述べてそこから三つの行動原理を導き出したけど、本編の中から根拠を引っ張ってきたことと、行動原理に対して意図的に善悪の判断は加えなかったのは「好みの問題」に落とし込まれないようにするためさね。



まあ違和感の萌芽ってゆうまさに感覚から始まったわけだから、相手の反応に対するそういう意識も必要かもしれんけどさ、そんなに自分の違和感が論理的だって強調したかったの?



というよりはむしろ、相手の退路を断つためやね。感覚の問題なら、何を書いても結局はそこに逃げられてしまい、二つの評価・解釈が並列するだけだ。でも、その逃げ道を断っておけば、どっちが妥当なの?と考えてもらえるからね。



まあ要は逃げずに俺の解釈を受け入れろ!てことなん?w



うんにゃ。かなり詰めて考えたつもりだけど、具体例の選び方とかに恣意的な部分があったかもしれんし、これが決定稿とは思ってないよ。こないだ上諏訪行きの時に出た「統計のはらむ恣意性」もそうだけど、数字とか客観的に見えるものであっても、サンプリングの段階ですでに偏っていたりするわけでさ。もうちょっと細かい部分でも、色々と突っ込むことは可能だし。



例えばエンディングを変えることによる弊害とか?



そうだね…たくやと広大のアナロジーが成立しなくなってしまう、といったものは出てくるだろうよ。



それに対する反論は?



アナロジーはむしろ成立させる必要がない。家族の情念という点については保留が必要だが、少なくとも真理というものに対する探究心は大きく異なっているからね。剣ノ岬に関する澪との会話、広大の研究に関する龍蔵寺との会話、事象世界の仕組みを絵里子から聞く時のたくやの様子などからすれば、たくやに探究心があるようには見えない。**と共にいながら、未だに「歴史の真理を探究している」広大とは大違いさ。ゆえに、アナロジーが必要どころか、むしろ対照的な描き方をすべきなんだよ。



でも、たくやにだって学術的探究心、あるいは真理への意思は少なからずあるかもしれないぜ。本編で描かれていないだけで。



だったら、それをきちんと描くべきだよ。作品ってのは全てを垂れ流すのではなくてどう切り取るかにかかってるんだから、たくやがそのような人物であるという具体例を本編中できちんと入れておくべきだね。それをやらずに、むしろ相反するような事例を揃えておいて、実は学術的探究心が広大並に豊富で…みたいな解釈をしたり、あるいは作者が受け手にそう期待したりするなら、どちらも愚の骨頂だよ。



エンディングの代案が小説版YU-NOに近い…というのは?



それが何で批判になるのかよくわからないけど…まあ小説版のエンドを何の説明も無く採用してたら上記の反論は全くのところ正当だし、さらに言えばそのエンディングの採用は確実に感覚的なものだと言われるだろうけど、現行のエンディングの何が問題なのかをきちんと提示している点で、小説版とは全く違うよ。まあ結論が同じなら過程なんかどーでもいいって人にとってちゃあ満足のいくものじゃないだろうがね(「人と違う結論よりも、結論の過程を重視すべきこと」)。



理系面での反論は?日常への回帰をどう理系的に説明するのかっていう。



んなもん作者の裁量次第で何とでもなるでしょ(「意味のある突っ込みとない突っ込み」)。



とか言ったら絶対「YU-NOはそこの整合性にもこだわっており、その見解はそのこだわりを無視するものだ」って反論が出るんじゃね?



まあYU-NOのこだわりそのものは確かだねえ。じゃあさ、「何で」ユーノは事象の流れから外れた空間に飛ばされたの?「何で」リフレクターはあの形をしているの?理系的にその必然性を証明できるわけ?



そりゃ言うだけヤボってもんでしょ。だってSFじゃんよ。



な?その一言で終了よ。確かに、枠組みとなる世界の構造をきっちり説明しているのは、それがゲームシステムと一体化していることも考えれば、どれだけ評価してもしすぎることはないと思うけど、一方でそれは、全てを説明しなきゃいけないってことじゃあないぜ(「作品に対する「説明不足」という評価について」)。これでも足りないならもう一つ言っておくと、アイテムの残存にもかかわらず、それに関連した自発的な行動の変化が全く無いのは明らかにおかしいよね。記憶が戻るかどうかはともかくとしても、持っているだけで話が違う方向に行く場合だってあるだろうし、逆にそうならなければおかしいアイテムさえ存在している。



例えば?



超念石。龍蔵寺邸の「ロープ」の所有がその世界からの「ロープ」の消失を意味することを考慮すれば、超念石を所有したたくやが訪れた世界においては、亜由美たちの行動も大きく変化せざるをえないし、それは以降の展開にも変化をもたらすのが必然だろう?でもそんなことは全くないんだ。百歩譲って記憶には影響しないとしても、亜由美たちの行動さえ変わらないのは完全な矛盾と言わざるをえないよ。結局これってさ、事象を行き来してアイテムを収集し、宝玉を集めるっていうゲーム性を重視した結果ゆえの齟齬でしょ。こんな風に、理系的な整合性は必ずしも最優先事項とは限らないし、時には必然性を犠牲にしてでもゲーム性を取っている部分もあるんだ。以上のことから、くだくだしい説明は不要だと考えるし、それで問題なら、ユーノにしたような何らかの「工夫」をすればいいだけでしょ。



それによってエンディングが「ご都合」とか言われる危険性は?



理系的側面に関しては今話したとおり。内容面に関しては、終わりある日常=死を示唆するものになるため、むしろ厳しい印象さえ与えるから問題なし。



なるほど。にしても、こんなことを考えてるから長文になるんだよねえ。



たまにうんざりするが、まあそれもしゃあないやろ。満足のいかない記事を書き連ねるくらいならブログなんてやんないほうがマシだし。



げにやげに。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« フラグメント132:接吻、... | トップ | 岡崎京子再び »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

YU-NO」カテゴリの最新記事