以前、AEDに関する訴訟リスクを扱ったABEMAの動画を引用し、最終的な解決策は「善きサマリア人の法」しかないと思われる、と書いた。AEDをやるのもまた「自己責任」であり、ゆえに助けたにもかかわらず後からとやかく言われるくらいなら「触らぬ神に祟りなし」とばかりに見て見ぬふりをする人間が出てくるのは、多様化・複雑化の中で他者の不透明性が増し、リスクヘッジを今まで以上に気にせねばならない社会ではごくごく当たり前の話だと思うからだ。
念のため言っておくが、これは「そんなリスクは関係なく助けたいという方は、『自己責任』にてそうすればよろしい。ただ、それを自分に強制するな」というロジックだ。まあこれでもわかりにくければ、その行為を強制するなら、貴方はそれによる訴訟など含めたリスクの責任を負えるんですか?と問われて、自分ならどう答えるかを考えてみればよい。
ここまで書くと、私があたかも「AEDをしたことで訴えられるリスクがあるなら、それをやらないのは当然で批判される謂れはない」という主張に全面的に賛成しているかのように思われるかもしれないが、そうではない。これは古典教育の記事やマスメディア不信の記事と同じ構造でもあるので説明すると、
1.AEDをやることが浸透するのは人命救助という観点で社会的にメリットがある
2.しかしながら、その実践を阻害する、もしくは不作為を正当化するロジックが存在する
3.よって1の見地に立てば、阻害要因やその論拠となりうるものをどのように緩和・クリアするかを考える必要がある
という論理構成になる(AEDを「古典教育」や「大手メディアの役割」といったものに置き替えられる。そして古典教育なら、2は「ファスト教養」的発想・教育や受験のシステム・娯楽の氾濫などになる訳だ)。
今回事例として挙げたAEDに関する女性のアンケート結果と、それに対する某掲示板の反応を見ると、
(1)そもそもアンケートの問題設定がおかしい
(2)そのことを指摘して有用なアンケートにすべきとは提言せず、女性叩きやミソジニーの理由付けにしている
といった傾向が見て取れるだろう。これは動画のコメント欄にも類似の指摘があるが、「助けてはほしいが抵抗はある」なら男性でも入院中の尿瓶に抵抗がある人などもいる訳で、しかしそれは「尿瓶が必要なくらいなら手術も入院もなく放置してくれ」という意味なのかと言えば、全くそうではないだろう。この意味で、アンケートは少なくとも「抵抗があるので異性からのAEDはなしにしてほしい」・「抵抗はあるが異性のAEDはやむをえないと思う」・「AEDを使われるような環境なら特に抵抗はない」といった具合に内容を具体化・細分化するべきで、そうしてより具体的な意思表明がわかる状況でその結果を議論しなければ、単に不毛な煽りとなるだけである(そしてそのことを踏まえないアンケート結果への嘲りも、その罠を意識せず共犯関係になっている点で同じ穴の狢と言える)。
これに関しては、死刑制度の話でも触れたことがあるが、そもそもなぜ「死刑制度の是非」という二項対立(二項思考)しかないのかが問題であり、少なくとも、「今のまま死刑制度はいくべきだ」・「死刑は残すべきだが、人質司法の廃止や取り調べの前面可視化など制度的な改善は行っていくべき」・「今の仕組みが変えられないなら、死刑は廃止した方がよい」・「いかなる状況においても死刑は廃止するべきである」の4択は最低必要であり、そうでなければ世論調査という名目で、単に分断の促進へ加担することになりかねない、ということを自覚すべきだろう(まあもっとも、イギリス統治時代の初期インド国民議会ではないが、実は仕組みを変えたくない組織の人々が、それを正当化するために意見を募り、それを根拠に不作為をなす、という統治手法はあるので、そこまで一応考慮には入れておくべきだが)。
というわけで今回は以上。なお、ここでもう一つ重要な視点は、「そもそも事態を解決したい」とか「事態をより良い方向に向かわせたい」という意思の欠落だと思われるが、それについて以下の動画を掲載して結びとしたい。
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