ドクトル・ジバゴ:数奇な運命をたどった「反体制」の作品

2022-12-17 11:38:38 | 本関係

 

 

前に『反逆の神話』という著作を取り上げ、「反体制」なるスタンスのファッション性(「反体制」という名の流行)について言及した。そもそも、「体制・権力≠絶対悪」である以上、「反体制・反権力≠絶対善」という理解も成立しないことは自明だ(連合赤軍やカルト教団の例を挙げるだけで十分だろう)。これは「抵抗や異議申し立てをシニカルに捉えよ」といった話ではなく、人間(やそれが造った組織)というものが必謬性を帯びている以上、端的な事実である。『反逆の神話』を通じて最も心に留めておくべきことは、このような世界理解だと言える。

 

しかし同時に、「反体制」をおしなべて「ポーズに過ぎない」などと見なすこともまた、トゥサン・ルーベルチュール、ホセ・リサール、ガンディー、マンデラといった人々の命を賭けた闘いを想起すればわかるように、大きな誤りである。ソ連についても、『収容所群島』を著したソルジェニーツィンの処遇からもわかるように、共産主義一党独裁の元での政権批判や革命批判が死(良くて社会的抹殺)と隣り合わせの行為であった。本動画で紹介されている、『ドクトル・ジバゴ』発表までの紆余曲折と(しばしば無知と偏見を通じた)毀誉褒貶は、改めて「反体制」・「反権力」というものの厳しさを私たちに伝えてくれるものだろう。

 

この他にも、『ドクトル・ジバゴ』の事例から学べることは多い。前述のホセ・リサールやガンディーについて、読者の中には「植民地支配を押し付けられた人々の権力に対する抵抗と、仮にも自分たちで作り上げた(と思っている)革命政府への異議申し立ては本質的に違うのではないか」と思った人がいるかもしれない(もちろん、社会革命党が勝利した選挙に介入したことなどからして、「ソ連政府が人民の総意によって作られた」などと信じている人は今日日いないと思うが)。

 

確かに、前者は言わば「外側」(宗主国に支配される側)からの批判・抗議行動であるのに対し、後者は「内側」からのそれである点、両者をイコールで結ぶのは多少の誤解を招くかもしれない。しかしながら、「自分たちの作り上げた政体」であるがゆえに、「それへの批判=自己否定」と短絡させる発想こそ、全体主義が持つ病理の最たるものではないか。これにはいくつかの論点があるが、まずそもそも、先に述べたようにそも権力とは(人間と同じで)腐敗を免れえない存在であり、ゆえにこそチェックアンドバランスが歴史的にシステム化されてきたのだ。つまり、仕組みが健全に機能しているならば、政権批判というものは必然的に生じるものであって、「批判=否定」というのはいかにも幼児的(ウェーバー風に言えば「政治的未熟児」の)発想と言わざるをえない。

 

次に、上と類似する話だが、「批判≠アンチ」ということだ。パステルナークもソルジェニーツィンもその愛国心で知られるところだが、祖国を思えばこそ、問題点について深く考えるし、またそこに困難があろうとも異議申し立てをせずにはおかないのである。日本の例で言えば、右翼組織として有名な玄洋社は、明治政府に対して自由民権運動を展開した組織の一つでもあり、その条項には「人民の権利を固守すべし」というものが存在していた、と聞けば意外に思われるだろうか。しかし、フランス革命において「我々が自身の代表を選ぶ」という国民国家の発想から参政権・被選挙権とナショナリズムが深く結びついていたという事実からすれば全く驚くに値しない。玄洋社としては愛国者として理想の国のあり方を考えるがゆえに、そこと乖離する政府の方針に対し強い遺憾の意を表明するのはもちろん、抗議行動に及んだわけで、その抗議行動をもって玄洋社が「反日」などと考えるのは、「右翼=愛国=政府への翼賛的組織」という誤った認識を元に考えているからであろう(このような誤認が形成された歴史的背景も重要だが、ひとまずここでは「日本の風土を愛することと、日本政府を肯定することはイコールではない」とだけ言っておこう)。

 

今述べてきた事柄を動画ラストにおける教訓話とつなげるなら、健全な批判精神とアンチの懸隔を理解することの重要性であり、それを考えようもとしないのは畜群への一里塚だ、ということである。「体制べったり=愛国」のような発想は唾棄すべき誤認で、それは単に「長いものには巻かれよ」という態度(唾棄すべき権威主義)に過ぎず、「愛とか肯定ではなく単なる依存」というのが正しい。そしてさらに言っておくと、グローバリゼーションという過剰流動性の中で不安にかられた人々は、健全な批判精神を失って依存体質となり「全肯定-全否定」の不毛なレッテル貼りに耽溺しやすくなっており、日本においても「自己責任論が生んだ『ゼロリスク世代の未来像』」で述べたように、不安と自尊心の欠如から何かにしがみつくようなメンタリティがますます強くなってきている(たとえそれが「茹でガエル」状態を導くようであっても)。

 

以上を踏まえると、『ドクトル・ジバゴ』に対する毀誉褒貶は、それが内外から冷戦のプロパガンダとして虚像を背負わされたことも含め、現代社会の病理にもつながる他山の石として、参考にすべき事例と言えるのではないだろうか。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 金沢城公園を見学 | トップ | マスコミの戦争責任について... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本関係」カテゴリの最新記事