いわく、憎悪や欲望は自らに跳ね返ってくる。
いわく、人は死ぬと生前の行いに応じて天国か地獄に行く。
このような、父親の信仰する宗教の教えを知った時、まず思ったのは「それなら赤ん坊はどうなるの?」ということだった。すると、何でも中間に位置する灰色をした世界に行くらしい(それによると天国も地獄も細かく階層化されているのだが、その完全な中間とのこと)。ちなみに、憎悪や欲望が跳ね返ってくるという話は人間関係にまつわる道徳的・具体的な話ではなく、実際にそのような現象(?)が起きるとされており、図入りでその仕組みが説明されていた。
さて、その時は納得したが、今度は「なぜ天国と地獄が存在するのか?」「なぜあの世があるのか?」という疑問がわいてきた。小学3年の時。授業の中で仏教の地獄の話が出てきて、生前に悪いことをすれば地獄に行くんですよと先生が説明をしていた(地獄にはこんな酷い仕打ちが待っているとの煽りつき)。その後の休み時間、よく遊んでいたクラスの男子が言うには「俺もう悪いことするのやめよう」。ああ、なるほどこれか。これが天国と地獄の存在する理由なんだ。「良いことをすればそのおかげで天国に行けるけど、悪いことをするとそのせいで地獄に落ちる」「だから悪いことをしてはいけません」というわけだ。つまり天国と地獄は、教えを守らせるための「設定」なのだ。
そうすると次は「なぜ地獄の先に救いがあるのか?」という点が気になってくる。善い行いをして天国にいった人は、さらにそこで修行(?)をしてより上位の階層に行き、一方で地獄に行った人はさらに下層へと落ちていくと説明されている。これは理解できる。しかし、(地獄で)最も下に位置する二つの階層は、きらびやかでこそないけれども、責め苦のない静かな世界らしい。ではなぜ、天国はその先に責め苦があるわけでもないのに、地獄はそうなっているのだろうか?その答えが出たのは、中学だか高校で悪人正機説を知り、「敗者復活戦」という視点を獲得してからのことであった(例えば教えを破ったからといって自暴自棄になられたら困るし、またすでに悪行を積んできた人間を取り込むのにも有効である)。
「本当に」それらが存在するかどうかなど知らない。ただ、そう言い募ることの戦略性と有効性は理解できる。そういうことだ。
いわく、人は死ぬと生前の行いに応じて天国か地獄に行く。
このような、父親の信仰する宗教の教えを知った時、まず思ったのは「それなら赤ん坊はどうなるの?」ということだった。すると、何でも中間に位置する灰色をした世界に行くらしい(それによると天国も地獄も細かく階層化されているのだが、その完全な中間とのこと)。ちなみに、憎悪や欲望が跳ね返ってくるという話は人間関係にまつわる道徳的・具体的な話ではなく、実際にそのような現象(?)が起きるとされており、図入りでその仕組みが説明されていた。
さて、その時は納得したが、今度は「なぜ天国と地獄が存在するのか?」「なぜあの世があるのか?」という疑問がわいてきた。小学3年の時。授業の中で仏教の地獄の話が出てきて、生前に悪いことをすれば地獄に行くんですよと先生が説明をしていた(地獄にはこんな酷い仕打ちが待っているとの煽りつき)。その後の休み時間、よく遊んでいたクラスの男子が言うには「俺もう悪いことするのやめよう」。ああ、なるほどこれか。これが天国と地獄の存在する理由なんだ。「良いことをすればそのおかげで天国に行けるけど、悪いことをするとそのせいで地獄に落ちる」「だから悪いことをしてはいけません」というわけだ。つまり天国と地獄は、教えを守らせるための「設定」なのだ。
そうすると次は「なぜ地獄の先に救いがあるのか?」という点が気になってくる。善い行いをして天国にいった人は、さらにそこで修行(?)をしてより上位の階層に行き、一方で地獄に行った人はさらに下層へと落ちていくと説明されている。これは理解できる。しかし、(地獄で)最も下に位置する二つの階層は、きらびやかでこそないけれども、責め苦のない静かな世界らしい。ではなぜ、天国はその先に責め苦があるわけでもないのに、地獄はそうなっているのだろうか?その答えが出たのは、中学だか高校で悪人正機説を知り、「敗者復活戦」という視点を獲得してからのことであった(例えば教えを破ったからといって自暴自棄になられたら困るし、またすでに悪行を積んできた人間を取り込むのにも有効である)。
「本当に」それらが存在するかどうかなど知らない。ただ、そう言い募ることの戦略性と有効性は理解できる。そういうことだ。
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