沙耶の唄をプレイして、「これは~のオマージュだ」といった発想しか出てこないような想像力を私は軽蔑する。
もちろん、「ホットショット2」のようにオマージュに満ちていることを楽しむ作品も存在する。
しかし沙耶の唄においては、映画と違って主人公主観が自然なものとして採用され、マンガや小説と違って音声や音楽があり、アニメと違って自分のペースで物語を読み解くことができる。
このような表現形式上の特異性があるために、映画やマンガなどから内容的に影響を受けているからといっても、その受け取られ方や効果は違ってくるのは当然であり、そこをこそ指摘しなければ端的に自分の知識を披露する以外の意味はない。
特に沙耶の唄は主人公の特殊な視点にどれだけ没入させることができるかが作品の鍵なのだから、表現形式の問題はいくら強調してもしすぎることはないのであって、むしろ引用作品と同列に置こうとするorそうすることを期待する作者の精神性の方こそが愚昧なのである(幸いにして、たとえば「ラブクラフト的なものとは違って期待外れだった」というようなコメントは海外のものでも少なく、この作品の核となる認識論が話題の中心になっているのは喜ばしいことと言えるが)。
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