出生率、優生学、リバタリアンパターナリズム

2024-03-27 16:49:34 | 生活
前回、『仲人の近代』という本を話題に出した。
 
 
この本に関しては、江戸時代への幻想、伝統にまつわる幻想や誤解、優生思想、共同体の構造とその崩壊、会社共同体とその機能などなど、このブログで取り上げてきた様々なテーマが越境的に扱われており、おそらくここ数年で最も興味をそそられながら読んでいる。
 
 
ただそれだけに、そこから得られた知見をまとめるのには時間がかかるので、ここでは前掲書とも絡む話題として、先日触れた「個人=リバタリアン、社会=リベラリズム・リバタリアンパターナリズム、世界=カオス」という三層構造の件を話しておきたいと思う。
 
 
これに関しては、人間が手前勝手に妄想した法則(集団幻想)を人間社会の外に当てはめて勝手に絶望・発狂する様を端的に述べたのが「一切皆苦」であるといったことも言えるが、『仲人の近代』に絡めるならば、やはり「リバタリアンパターナリズム」にフォーカスすべきだろう。
 
 
リバタリアンパターナリズムとは、「リバタリアン」=各個人の自由であるとしてそこに思想などの強制は行わないが、「パターナリズム」=人間を「生-権力的」にあるべき方向へ誘導するという発想である(これは技術の発展と同時に、認知科学や行動経済学など、人間の非合理性とその対処に関する諸分野の知見の蓄積が背景にある)。
 
 
わかりやすいのは喫煙で、タバコの害を訴えて喫煙者を減らすとか喫煙の回数を抑えるのではなく、タバコ一箱の値段を1000円にしたりする(当然、嗜好品として高級になるので喫煙者の割合は減る)。このようにして、道徳の植え込みではなく、システムの操作を通じ、「自由意思で社会の意図する方向へ動くようコントロールする、という手法である(この最も著名なものは「マクドナルドの椅子」であり、そこでは「滞在時間に関するお願い」を掲示するのではなく、その硬さを適度に不快なレベルにすることで、自由意思で顧客が長居しないよう調整されている)。
 
 
ところで、私はそれと同じレイヤーにリベラリズムも置いているが、この大きな理由の一つは、リバタリアンパターナリズムだけだと、悪名高き優生学の再来を招く、といった危険性があるからだ。つまり、「善き社会」を作るために、そもそも「劣った遺伝子」の人々は、子孫を残すべきではない、として断種などを行うような政策・風潮を惹起しかねない。これは遠い世界の話などではなく、日本でもいまだに裁判などで尾を引く優生保護法とその被害である(あるいは、植松聖による相模原の事件を想起するのもよいだろう)。
 
 
よってそこには、「基本的人権の侵害は認められない」といったリベラリズムの歯止めが必須と言える。
 
 
ではなぜ社会はリベラリズムだけを軸にできないのかと考えるのか。それは適用範囲の恣意性であったり、フリーライダー問題、システムの攻撃者への対処であったりと、理念型としてはともかく、例えば「結果の平等」は実現不可能なため全員が幸せな状況は決して訪れないのは前提として、その理念をどこまで広げるべきか、そしてその理念型を実現しようとする社会自体を破壊しようとする(あるいは破壊しかねない)動きをどう取り扱うか、といった問題を免れることができない。まあ何だかんだ言っても、食料危機のような事態になったら、理念なんてかなぐり捨てる動きも普通に出てくるだろうしね(と書くと露悪的だが、リソースに大きな限界が生じれば、優先順位の決定というトリアージ的発想による対処は免れえないと考えるのは当然のリスクヘッジだろう)。
 
 
結局リベラリズムとは、ロールズとサンデルの論争などでも取り上げられているが、ある程度社会という土台(アーキテクチャー)の安定性の元に担保される「箱庭の理想」でしかない。そのような限界の認識ゆえに、その土台が破壊されないようなコントロールは必須・・・というわけで、リベラリズムの外郭を構成する一種の「殻」・「繭」として、リバタリアンパターナリズムが要請されるということだ。
 
 
以上からすると、少なくとも私の考えでは、両者は矛盾しているというより、相補性の関係にある。ただ、その境目を巡っての耐えざる緊張関係にあるため、保守主義ではないが「永遠の微調整」が必要であろうし、また「ユートピア」的なものは決して現出しないとも考えている、という次第。

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