フラグメント248:日本・芸術・大衆化、シュガーラッシュオンライン、二級市民

2024-03-25 11:30:27 | フラグメント
前回の覚書はリバタリアニズムの問題点や愛国と権威主義などを扱っていたが、今回のはどうも244で書いた体系化・構造化の欲望や、246の日本社会論の話に立ち返っているようだ。
 
 
最初の〈フラグ、意味論、間何か、自由意思で服属〉は「日本社会は近代化されていない」、「ゆえにそれを踏まえた脱構築のようなものがそもそも機能しない」というよくある話。近代化されていないということは、中世・近世的なカオスが残存しており、ゆえにそれがあたかもポストモダン=先進性のように見えるが、単に素のままなだけですよと(その後進性は、2023年にジャニーズ問題や宝塚、ビッグモーターやダイハツなど閉鎖的組織とその問題点が噴出したことで、嫌と言うほど認識されたのではないか)。
 
 
なお、この点はちょっと注意が必要で、社会の構造解析やその改良・改善を考えていく場合には確かに重要なのだが、一方でコンテンツなどを無理に欧米規格にしようとするのは、単に劣化コピーが出来上がるだけなのでやめるべきである。これは単に個人的な好き・嫌いの問題ではなく、経済衰退が続く日本においてコンテンツ産業は光明の一つなので、戦略として意図的にそのままの状態を維持した方がよい、ということだ(ただし、生産体制など労働環境の問題などはまた別の話だが)。
 
 
覚書でも触れられている問題意識は、「脱亜入欧的オリエンタリズム」というねじれた自己意識であったり、あるいは「神国思想の変遷に関する覚書」でも触れたこととも繋がる。すなわち、自己否定と自己肯定の間を振り子のように揺れ動く日本の引き裂かれた自己評価に関する話である。この話は、『仲人の近代』(青弓社)という本のレビューとともに、そう遠くないうちにまた取り上げることになるだろう。
 
 
次に、〈シュガーラッシュオンライン:愛娘には旅をさせよ〉と〈二級市民〉は全く違った話を扱っているようであるが、本質的には男女の二項思考やそれに基づいた描写は完全に不毛の極みという話である(大きな個人差があるものを、どうしてそこまで単純化できると思っているのか理解できない)。これは「『頂き女子』の求刑に対する反応を見て思う事」などともつながるが、今ある社会的不正や不平等は大いに告発していくべきだというのは大前提としても、その告発の刃が自分にも向けられて然るべきという視点が欠落した思考態度は、端的に言って無価値である。
 
 
そう言えば、テレビで社会問題を批判しまくっているどっかの司会者が、外国でやらかして大きな批判を浴びて謝罪もしたが、その様がさらに炎上しているとも聞く(私はテレビを見ないのでよくわからないが)。ま、そういうことである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2019/01/21~27
 
〈フラグ、意味論、間何か、自由意思で服属〉
とはいえ、日本において芸術の大衆化なるものにどの程度効果もしくは実態があったのかは極めて謎でもある。何らのパラダイムシフトをもたらしてはいない。ウォーフォルがモンローの絵をプリントして配った。ふーん。としかならんのでは?浮世絵。漫画。何がズレているのかわからんし、ゆえに強度も変性意識も生まれようがない。
 
であるならば、日本における大衆化という動きを、欧米と同列に論じるのは難しいというより端的に言って誤りだろう。
 
この点はartはあるのか問題。良し悪しではなく、狩野派など自然を描く。何かしら別世界のものではない。由来が異なりはしないか。曼荼羅や仏像といった仏教美術はどうなるのか?
 
外来の言葉に自らを当てはめようとするからおかしなことになっているのでは?(日本人の無宗教の件)
 
椹木野衣。端的に言えば日本は近代化などしておらず、中世からポストモダンに「飛躍」したかのように錯覚した状態。だからサンプリングが縦横無尽にできたとしても、あるいはカルチャーとサブカルチャーが無媒介に交流できたとしても、それは別にパラダイムシフトでも何でもない。ジャンルの確立がなされていないからだ(日本にあるのはジャンルではなくセクショナリズムと既得権益?)。
 
という定義の可否判断は読者に委ねるとして、19Pで書かれている内容が完全に現在の日本、すなわち伝統の捏造と排外主義というベクトルを予言していて不気味ではある(まあ不安でアノミー状態になったら、ナチスドイツみたいなのに魅せられやすくなるってことですな)。
 
戦後日本とヴァイマル共和国の相似。文化的濫熟と戯れ。
 
アイ・ウェイウェイ。
ペルセポリスで提起された問題。抑圧がなければカウンターもないし強度もない。全てが溶解していく、ということ?
 
芸術の大衆化。アールヌーボーからアールデコへ。ナショナリズム?民衆の富裕化?
 
日本を始めとするアジアはどうか?いわゆるアートは存在するのか?
 
 
 
〈シュガーラッシュオンライン:愛娘には旅をさせよ〉
 
ラルフとヴァネロペ。バディ。親友。繋がるだけじゃなく、それが承認と自己を振り替える機会になっている。ただのネタではない。日常から非日常へ。そこから日常に戻るとそこは元の日常ではない。関係性のリフレーミング、認識のリフレーミング。
 
その意味で言えばオンラインは新しくない。別離くらい予想の範囲内。バディをただ維持する話を繰り返すだけなら6年もかかるかい。
 
女性バディの登場。プリンセスをネタ化。全てが一本の線に繋がっている。ヴァネロペは待たないし、むしろ新しい世界を刺激のために求める。異性とくっつかないし、表れる新バディは女性だ。
 
前回のラルフの行動は、承認を求める利己的なもの。それが親友を孤独という名の檻から解放する利他へと変わった。今回は、承認の源にしがみつく利己ないしは嫉妬から、大切な人の旅立ちを見送る利他へと変わる。
 
タフな女性が多く登場。男性の方がどこか陰気というか陰湿だ。
 
では、例えばヘテロな関係性を否定しているのか?そこでフェリックスとカルホーン夫妻が重要。見事に育児をなしとげる。でも、その秘訣は聞こえない。さすがわかってらっしゃる。それを言えば抑圧だ何だと揚げ足取り。上手くネタにしたな。
 
旧来の世界(オフライン)に残りたいラルフ、新しい世界(オンライン)に挑戦したいヴァネロペ。これまで、図式は逆だった。旅に出る男、待つ女。男は船で女は海?
 
ヴァネロペがワガママ。それはあながち間違っていない。一作目のラルフの とゲーム世界の崩壊。しかしゆえにワガママとだけの評価をするなら、ダブリナーズのエヴァリンの章でも読んでみたら?と言いたくなる。
 
ラルフが全ての元凶なので納得が難しい(利他つっても自分のケツを吹いただけ)。まああの巨人の描写からは納得させるよりむしろそのグロテスクさを描こうとした。
 
ヴァネロペの行動の害悪というバランスは?
 
 
 
〈二級市民〉
 
不動産、銀行の説明。
リスクの話をしない。
それでもハンコをついた以上自己責任。
調べれば出てくる。
そんな上手い話はない。
 
ボタンを開けていたから誘惑してると思った。
 
当然死ぬべきだろう。
 
何を勝手に妄想して、他人に暴行を加えているのか。
 
ボタンの一つ目を開けただけで誘惑と妄想する、すなわち赤いマントに突進していく猛牛がごとき性質を持っているのが男性で、女性はそれに留意すべきと言うのなら、そのようなリスクを孕む存在は「二級市民」として権利を制限するのが先だ、と論理的にはなるのではないか?
 
よく自己責任と声高に叫ばれるが、加害者となる男に「妄想しがちな己の愚かさを自覚し、それに引きずられない」という自己責任がまず第一に適用されるべきだ・・・といった発言を(少なくとも私は)聞いたことがないのは、驚くべきことのように思える。
 
俳優の顔見せ。ポプテピピック。
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 南都周遊記 二日目:金峯山... | トップ | 南都周遊記 二日目:龍王院 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

フラグメント」カテゴリの最新記事