ルサンチマンのハレーション:昭和維新、そして現代

2020-01-11 12:10:13 | 生活

 

この案件、実はもっと前にジム=ロジャーズ絡みで書こうと思ってたんだけど、彼が自分が今10歳で日本に住んでいたら、という仮定で「日本を脱出する」か「AK47を持つ」という発言をして話題になったことがある。その中にはもちろん批判的な意見も多く存在したし、別に彼の発言を鵜呑みにする必要も全くないのだが、一方で「こんな発言はレベルの低い脅しで、日本は全く問題ないのだ」なんて考えたりしてるのなら、それはさすがに甘すぎるだろうと私は考える。

 

なぜそう思うのか。N国党の躍進(これは「マスゴミ」という表現ともつながる)や「上級国民」にまつわる言説の背景に、いわゆる「既得権益」・「エスタブリッシュメント」への不信感とルサンチマンがある、という分析は少なくないので今さら繰り返す必要はないだろう。一見するとこれは新しい傾向に思えるかもしれないが、2000年代前半に「自民党をぶっ壊す」と宣言した小泉純一郎の躍進を考えれば、実はずっと燻り続けている情念・怨念であると言っていい(なお、色々ぶっ壊された結果として社会の包摂機能=セーフティネットもぶっ壊され、むしろアンダークラス増加の要因を作ったこともよく指摘されることである)。

 

そして、昨年起こった川崎事件や京アニ放火殺人事件では、もはや凶悪犯罪を何とも思わなくなった「無敵の人」が話題となり、「一人で死ね」という言葉がネットを席巻したことは記憶に新しい(などと書きつつ、これすら下手すると風化しつつあるんじゃないかと思う今日この頃だが)。それらとは若干性質が異なるとはいえ、2016年の相模原事件、2018年の新幹線車内殺傷事件の存在を考えれば、突如として始まったこととは言い難いだろう。

 

さて、この一連の流れで私が不思議に思っていたのは、管見の限り両者が(意図的なものかは不明だが)結びつきうる可能性について言及した考察・コメントは全く見られなかったことである。

 

え、だってそれらは基本的に「弱者」を狙ったものであって、「上」に向くことなんてありえるの?と思われるかもしれない。確かに、現象として攻撃(ルサンチマン)の矛先は自分より弱い存在に向かう傾向は見て取れるし、それは生活保護の(受給率の低さは問題にせず)不正受給を袋叩きにするのに、パナマ文書は大して問題にならないことにも表れている(なぜこの例を出すかと言うと、本当に国家財政を問題にしているのならば、金額的にはタックスヘイブンの方が圧倒的に影響が大きいからである。にもかかわらずここを問題提起しないところに、本音は「自分たちより下の存在が楽をしているのが許せない」というものであることがパフォーマティブに表出している)。

 

その意味では、今のルサンチマンのハレーションはナチスドイツ的で、すなわち自国の地盤沈下の原因をユダヤ人などに求め、マイノリティや弱者(ロマや身体障碍者など)を弾圧・殺害していったのと似ている(これは大澤昇平絡みで書く予定だった話。ちなみにそのナチスドイツの支持者が没落中間層であったことはフロムやアドルノの研究によって判明しており、これまた現代日本の右傾化とその表出と類似性が指摘できる)。

 

とはいえ、我らが日本はそれと逆の現象を経験したことがある。例えばこんな具合に。日露戦争で国家予算が破綻しかけた日本は、日仏協約などで他の列強と協力しつつ(その代わりヴェトナムの独立運動は弾圧)、WWⅠの戦争特需で儲けるなどして復興した。しかし、戦後恐慌・震災恐慌・金融恐慌・世界恐慌という4つの恐慌で疲弊し、生糸の値段が暴落したことなどにより農村では身売りが多発。これらが農本主義者を刺激して二・二六事件が勃発した(高橋是清蔵相などが暗殺)。このような中で、1921年には安田善次郎(安田財閥)暗殺と原敬(首相)暗殺が起こったし、1932年には血盟団により井上準之助(大蔵大臣)と団琢磨(三井財閥)らが暗殺された。なお、血盟団の実行部隊には東大や京大出身のエリートも複数いた(こう書くと、オウム事件を連想する方もいるだろう)。

 

つまり、繰り返すが我々は「上」への大々的なテロールを経験しているのであって、それを将来的にも絵空事と断じるには今の日本はいささかきな臭すぎるように私は思うがどうだろうか?

 

繰り返すが、現在見る限り日本のルサンチマンのハレーションは単に勝ち馬に乗りたいという欲望であって、階層的・階級的ルサンチマンまでは行っていないと思われる。しかし、東京オリンピック後に不況が到来することでここから10年さらに地盤沈下が進んだ場合、そういう動向が出てこないとは限らない。

 

さて、ここで話は前回言及した実態と認識の差異に戻る。「上級国民」なるものの存在の有無ばかりが論争の的になるが、それが存在しないとしても、というか存在しなければなおのこと、「なぜそれがここまで問題になるのか?」に注意を向ける必要がある。というのは、その有り様が少し変われば、京アニは官庁になり、無辜の小学生は大企業の役員や政府高官となりうるからだ(まあこういう話をすると焼け太りした検察など司法権力がその勢力拡大の材料にするかもしれない、という懸念がこういう言説が表れない理由かも)。

 

そうなると何が予測されるか。「治安悪化のコストを税金から捻出」、「優秀な人材の国外流出が加速」、「それによるイノベーションの停滞と税収の減少」、「観光客の減少」、「法による生活の制限」、「政治の硬直化」etcetc...つまり、日本社会全体の疲弊へと繋がりうるわけである。

 

かかる状況の中で、社会的害悪となりうる無知を単なる自己責任論で済ませるのって、それは本当に社会性のある発言なのかい?と私は言いたいのだ。「上級国民」の案件も、繰り返すが厳密に存在するか否か以上に、「そういう既得権益層がいるという幻想」の方が重要になりうる。それが実体とは異なるのにルサンチマンの増幅材料になっているというのであれば、それは(一例として)法的知識を早い段階で国民に身につけさせるなどの「攻勢防御」をやらないと、これまでの「知らしむべからず」でやっているとネットなどでルサンチマンが増幅されてカタストロフが起こる可能性は十分にあるけどどうするの?という話である(ちなみにこれへのもう一つの対処法は「ネットの中国的検閲」である)。

 

というわけで、短絡的な自己責任論は実質ただの思考停止でしかなく、状況をただ悪化させていくだけであると述べつつ、この稿を終えたい。


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