二週間ほど前に「プロフェッショナルといふもの」を書いた。その目的は、友人のブログで「『プロフェッショナル』の定義に対する一考察」という記事を読み、考え方についてはうなずけるところが多々あり、一方論じ方についてはやや問題があることを示すためだった。で、それに対して今度は「『定義』とはどうあるべきか」という形で友人から疑義が提示されたので、その話を少ししておきたい・・・
なーんて固く書いておりますが、実際にはすれ違いの多かった11月頭のファミレスでの会話を思い出し、ニヤニヤしたり苦笑したりしていたってーのが本当のところだ。定義の変化の話についてはまさしくその通りで、たとえば「貴様」が元々偉い人間に使う言葉だったからと今も使うヤツは単に頑迷なだけだろう。このように、内容そのものについては納得いくのだが、俺の示した問題点がやや大上段に受け取られすぎているようなので、簡単に言いなおそう。「そういう論じ方をするなら、『定義』っていう言葉は誤解を招くから使わない方がいいんじゃない?」というただその一点だけだ。別に「真理」云々など難しい話はしちゃいない。ただ、その言葉で自分の意図は適切に伝わるのかい?ということなのだ。
では、そういう観点で「定義とはどうあるべきか」を広辞苑とwikipediaに求めてみよう。
(広辞苑)
1 物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。「敬語の用法を―する」
(wikipedia)
「定義(ていぎ、英: definition)は、一般にコミュニケーションを円滑に行うために、ある言葉の正確な意味や用法について、人々の間で共通認識を抱くために行われる作業である。一般的にそれは「○○とは・・・・・である」という言い換えの形で行われる。」
これ以上英語のdefinitionの意味、ドイツ語のDefinition・・・と羅列してもそれこそ無意味なのでやめておく。まあ簡単に言えば、「定義」とは概念に近いもの(概念を特定しようとする行為)なわけで、そうすると「定義」という言葉を使うことは読者に否応なしに一般性を意識させることになる。だから、定義を述べた上で「しかし自分はこう思う」と主張を提示するような対比のレトリックにでも使うのでなければ、自分の思うプロフェッショナル像を提示する時に「定義」という言葉を使うのは不適切な印象を読者に与えるんじゃないかい?という話だ(もし議論を喚起するために意図的にやるならこの限りではない)。
たとえば、私が「敬愛する」と評した人物に対して、「白痴」という言葉を使ったとしよう。よほどの文脈規定がなければ、読者は私の真意を疑うか、日本語能力を疑うかのどちらかだろう。これは極端な例だが、その言葉を使った時に人に与えるイメージへの配慮は必要だし、自分独自の意味を込めたいのであれば、それを先に規定した方が得策だ。植木月報の著者は真理を述べているつもりなどないと言う。なるほどそれはその通りだろう。後半では「真理」が作られる例として芸術家の話が挙げられているが、ここからは著者が「真理」を疑わしいものとして捉えているのは明らかであり、論旨は明確である(俺は「いー!」「いー!」と言ったものが何でも賞賛されるようになるドラえもんの道具を連想しニヤニヤしていた)。それも含めて全体的にわかりやすい記事ではあるが、「定義」については問題があるため、もし確信犯でないのなら、「私のプロフェッショナル観」や「私が思うプロフェッショナルの要件」という表現を使った方がよいと言った次第。
そうはいうものの、言葉の使用に関しては自分も(いや自分の方が)反省させられる点が多い。例えば「灰羽連盟:舞台設定、偶然性、実存」では過去の自分の記事を見返し「他者の感想を批判する資格など到底ない、駄文と評すしかない代物」と書いたが、文章の回りくどさに自分自身がイライラすることはしょっちゅうある(もっと言えば、そこに自分の驕慢さが漏れ出しているように見えて腹立たしく感じられるのだが)。少し前に仕事で出会った文章で
Unskilled writers are usually not aware of the tone they give their writing.
という記事を読んで全くその通りだと思ったが、自分自身にも反省すべき点が多々ある。ただ自分の感情や思想を表現するだけならともかく、誰かを説得したい(納得させたい)と思うなら戦略性は不可欠であり、そのためにも言葉の選択や文章の配列は肝要なのだから。
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