ドラえもんのび太とホーリーローリーマウンテン

2012-01-28 17:45:03 | レビュー系

パクリの国からコンニチワ。私が藤田浩之です。実は昨日アップした「ソウルイーターとエヴァンゲリオン」には草稿がありまして。途中で話が脱線し収集がつかなくなって結局書き直した次第でございますが、その脱線の仕方(記事の問題点)が昨日の記事で批判的に書いたことと連動するので一応掲載させていただこうと思ったのでございます。では以下、尻切れトンボ的駄文をご堪能くださいませ(゜∀゜)アヒャヒャヒャヒャ

 

以前「『父』と『母』、あるいは『勇気』について」という記事の中で、特に父と母の問題を中心に、ソウルイーターエヴァンゲリオンの話を取り上げた。その内容を多少乱暴に要約すれば、共に「他者といかに向き合うか」を問題にしているということであった。しかし、同じテーマを扱いながら、ソウルイーターとエヴァンゲリオンの表現方法は全く異なっている。今回は、それを比較対象する中でソウルイーターの表現の特徴(戦略)を明らかにしていきたいと思う。

 

まずエヴァンゲリオンについて。
しばしば言われているように、この作品は過剰なまでの引用に満ち溢れている。過去のアニメの要素もさることながら、マルドゥック、カバラの樹、ロンギヌスの槍など様々な宗教絡みのガジェットや心理学の要素を盛り込んでおり、しかも様々な謎をばらまくことで視聴者の解釈の欲望を強く刺激した・・・そんな作品だった(そう書くと、「ひぐらしのなく頃に」などを連想する人がいるかもしれない)。なお、様々なタームを「ネタ」として取り込む様はオウム的なものを先取りしていたと言われ、また苦悩するシンジに自分を重ねる人が多かったことから、時代を象徴する作品だとも言われている(私個人の感想は「嘲笑の淵源」を参照)。ちなみに「父」と「母」に関して言うと、シンジにとっては威圧的な父と「消えた」母=エヴァ初号機の問題があり、アスカは自殺した母の承認を求め、ミサトは自分を庇って死んだ父へのコンプレックスがつきまとい、リツコは母へのコンプレックスからゲンドウと関係を持ち、挙句カスパーに裏切られる(?)に到っている(ネタバレになり過ぎない程度にぼかしてある)。ことほどさように、エヴァンゲリオンでは親へのコンプレックスが多くのキャラに影を落としているが、TV版の最後の言葉が「父にありがとう、母にさようなら」というのは非常に象徴的であると言えるだろう(また劇場版のラストにおいて、シンジは一度LCL=羊水に取り込まれた上でそれを拒絶し、あえて自分を拒絶(も)する他者へと向き合うのであった)。

 

なお、このようにして「父」と「母」の問題を中心に扱ったのは、エヴァンゲリオンが初めてというわけではない。エヴァンゲリオンでは巨大化したレイという形で母(性)のグロテスクさが表現されているが、それに早くから自覚的でかつ繰り返し表現してきたのはガンダムの生みの親、富野由悠季である。紙面の都合上あまり詳しくは書かないが、たとえば「逆襲のシャア」は母(ララァ)を失いし者たちの壮大なケンカと見なすこともできる(まあ正確には母を失ったシャアの腹いせかw)。作者がこれに意識的なのは、シャアに向かってアムロに直接「エゴだよ、それは」と指摘をさせていること、また宇宙を漂い(?)アムロとシャアの間にい続けたいと言うララァに向かってアムロに同じセリフを吐かせていることから明らかだろう。ちなみにこの「母性のグロテスクさ・危険性」を最も直裁に表現したのが「Vガンダム」である。というのも、そこでは地球の人間の闘争心を忘れさせて戦争を集結させるとかいう名目でシャクティ(ヒロイン)とその母が敵方の計画に協力するのだが、実際のところそれは人を幼児化・無力化していく戦略なのであった。その様は、慈愛に満ちた寛容な人間の行為がカタストロフをもたらしうることを示すとともに、地球の人間たちが赤子のように眠ったまま横たわっている姿はなかなかに不気味で、エヴァンゲリオンのLCLによる一体化の表現(グロテスクさ)の先駆けと言えるものであった。

 

閑話休題。
一方でソウルイーターはどうか?言葉を全く使っていない。エンターテイメントとしての質の担保の仕方(殺人の追憶、鬼が来た!)。

では、言葉を使うと何が起きるか。

カテゴライズ。

(a)新たな二項対立 (b)思考停止。

それぞれ説明しよう。

(a)「父」と「母」、「父性」と「母性」

わざわざ母に「勇気」の言葉を示させる

没入したアシュラ(男)をマカ(女)に倒させる

入れ子構造。

(b)枠に当てはめて安心する

単なる深読みゲームが始まる

エヴァンゲリオンでは、対象に没入する=ベタな反応。シンジは私だ

クレッチマー派での分類、数多くの謎本。=単なるネタ

その二つが(あえてはっきり言うが)バカ踊りをしている、というのが加持リョウジ=傍観者的ポジションにいた俺の印象。 

もし本当に言葉を届せて視聴者に考えさせ、気づきをもたらしたいと思うのなら、

言葉を使わない方がよい、というのはたとえば「以心伝心」のような情緒的な問題ではないし、ましてや美学的な問題でもない。

すぐれて機能主義的・戦略的な問題(このことは、すでに「政治的に作られたアニメ」で言及した通りだ)。

真剣に言葉を尽くして語るほど、よりいっそう相手には届きやすくなすはずだ、というのは「いい人」がしばしば陥りがちな錯誤。「共感」の危険性、「明日、君がいない」の見事な演出

麻薬に慣れ親しんだ人間というものは、カタルシスが得られたか否かでしか善し悪しを測れない。

 

構造を辿らせる(指し示す)ことで気づかせるしかない。でなければ、新たな二項対立(敵ー味方)に飲み込まれて思考停止するか→原発、言葉の・・・に耽溺してやはり思考停止するかのどちらかしかない。

ソウルイーターという作品はその陥穽を熟知している。


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