狂気と「情念」

2007-04-07 13:28:49 | 感想など
私が狂気を求めたのは、「普通」、すなわち虚ろな社会的規範に支配された意識への懐疑や侮蔑という理由があったからだと前に述べた(世界への敵意:病的な完璧主義と滅びの希求。それが後に無関心と「嘲笑主義」へ繋がった。なお、今日では前提を失った言葉は「規律」であるという考えに繋がっている)。確かにそれは事実の一面、あるいは表層を説明してはいるのだが、その原因、深奥にまでは達していないのではないか、と強く思っていた。


その疑問に対する答えが、まさに先日見出した「情念」という視点だったのである。ただ、「情念」という言葉では誤解を招くかもしれない。より正確には、「枠組みに囚われない生々しい感情の発露」を求めたのだと言うべきだろう(この話は『人間失格』について述べるとき詳しく扱うかもしれない)。そのように考えると、かつての虜2への反応も簡単に理解できる。そこに求めたのはあくまで生々しい感情の発露、すなわち「情念」であって、調教という行為ではなかったのだから。


ところで、「情念」という視点は単に狂気への傾倒を説明するだけに留まるものだろうか?そうではない。狂気に対して求めた「情念」は、(以前書いたように)今日傑作として位置づけている諸々の作品にも共通する要素であった。ゆえに「情念」こそ、昔から変わらず求め続けているものだと言えるのである。そう考えると、「情念」に溢れたD.O.の家族計画が、「求めるに足るものなど存在しない」という精神に基づいた「嘲笑主義」を終わらせる契機となったのは至極当然のことであった(この話もまた、家族計画のレビューの際に書くことになるだろう)。


「情念」という名の研ぎ澄まされた刃…それをこそ、私は求め続けているのである。


※ただしカルタグラの例が示すように、情念があれば何でもいいわけではなく、そこには周到な演出(何を主張してるかだけでなく、どのように表現しているか)が必要とされる。そこまで行ってこそ、「情念」は刃となる。演出を通さなければ、単に強い感情の垂れ流しに過ぎないのである。
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