『ゆかいな仏教』より:なぜ「苦しい」と感じるのか?

2015-01-03 12:16:54 | 宗教分析

橋爪大三郎と大澤真幸がからむ対談は、『ふしぎなキリスト教』、『おどろきの中国』など様々に知的興味をそそられるものが多いが、なかでも『ゆかいな仏教』は、ここ数年で読んだ本の中で最も感銘を受けた著作の一つである(その他は『永続敗戦論』など)。これは実のところ自分の考え方に極めて近く、かつそれを端的に表現していると感じるからなのだが、中でも印象的な部分を一つ引用しておきたい(もう一つあるが、それはまた別の機会に)。

 

 (橋爪)
  私の理解。仏教にいう苦は、自分の人生が思いどおりにならない、ということと等しい。「思いどおりにならない」という部分を苦と表現すれば、愛する人と出会うのは思いどおりになっているから苦にならないけど、愛する人と別れることは思いどおりでないからそれを苦と感じてしまう。おいしいものを食べられればそれは苦ではないが、食べたいものが食べられなかったらそれを苦と感じてしまう。
 もしも思いどおりにならないことをネガティブなものとしてカウントしていくと、人生はネガティブだらけになり、自分の人生が自分の思いどおりにならないというそのことに圧倒されて、へしゃげてしまうだろう。そうならないため、自分の人生が思いどおりにならないのはなぜか、と考えるわけです。
 ひとつの結論は、人生についてあらかじめこうであると考えているから、そうなるわけです。むしろ人生は、客観的な法則によってなるようになっているだけ。だとすれば、あらかじめこうであるべきだというふうな甘い期待というか、幻想というか、そんなものを端的に持たないようにすれば、100%掛け値なしに、人生をあるがままに享受できる。すべてをプラスと受け取ることができる。こういうことを言っているだけじゃないでしょうか。
 だからむしろ、ポジティブな考えだと思うんです。(前掲書 80~81P)

 


この部分を読んで、私は全くもってその通りであると感じた(とはいえ、これをたとえば労働環境や社会的差別などへ安易に当てはめてしまうと、ブラック企業的なるものを温存させたりする危険性がある、といった留保つきだが)。私はしばしば「願望、交換可能、未規定性」「交換可能、アノミー、再帰的思考」などを通じて、「自分という存在がかけがえのない貴重なものである」といった考えがただのフィクションであると言ってきた(緊急避難的に「嘘も方便」としてそういう物言いをする場合は別にして)。また「嘲笑の淵源」「Interlude:誕生祝い」、あるいは「負の方向にも可能性は無限大」「沙耶の唄~埋没・覚醒・気付き」などで人間の文脈依存性と脆弱さ、そしてまた世界の未規定性(=人間万事塞翁が馬)について書いてきた。

 

この手の話を書くと、単に「信じれば叶う」といった発想をする人間は愚かであるといった嘲笑、あるいは下手をすると「お前には価値がない」という酷薄な指摘だとしばしば受け取られてしまうことに、私は驚きを禁じえない(もちろん私の文章力の問題はあるにしても、だ)。というのは、先の引用文にもあるように、そもそも自分本位に世界を考えたり、あるいは自分に特別な価値があると考えることこそが、むしろそれと(当然のごとく生じる)現実世界の乖離によって、むしろその人を苦しめる要因になってしまうからだ(私が「DEATH NOTE~乾いた死~」などを通じてノイズの排除された安易な救いや願いの成就を描く作品を批判し、また「勧善懲悪の嫌悪と三国志」で書いたように世界の構造を単純化する勧善懲悪を問題視するのは、まさに今述べたような誤った認識を受け手に植え付けてしまうからに他ならない。それは質が低いとかいう以上に、端的に害悪となるのである)。ゆえに、まずそのような思い込みから解放されることが、自分の心の安寧にとっても、よりよい世界理解にとっても必要不可欠だと思う。これはもちろん、自分がいつか劣悪な状況に置かれるかもしれないといってそれに怯えることなどを勧めているのではなく、それもまた端的に「ありえること」なのだ、と受け入れる姿勢を持つことが必要なのである。いらぬ期待の結果世界を灰色に染めてしまわないためにも、また他者にそれを押し付けていらぬコンフリクトを生み出さぬためにも。

 

最後に言っておくと、先に労働環境の話で少し触れたように、「あるがままを受け入れる」というのを社会契約などの領域に当てはめるのは危険であることも指摘しておかなければならない。たとえば私は人権はフィクション(擬制)にすぎないという話もしてきた。それに可視化された実態がない以上、また天から与えられたなどという場面を誰もみてない以上、これは当然のことである(納得できないのなら、試みに無人島で自分の「生存権」なるものを叫んでみた場合にどうなるかを想像してみるとよい)。とはいえ、ゆえにそれが何の実効性もないか言えばそうではない。それを極めて重要なのものであるという擬制・社会の中で私たちが生きている以上、様々な権利は社会的不正に否をつきつける論理的根拠となるし、また社会的関係性を調整するツールともなろう(これはたとえば、グロティウスの国際法が、スペインの新教徒弾圧を論理的に非難する必要の中で生み出されたといったことなどを想起すれば、思い半ばにすぎるであろう)。それは大いに活用していくべきであるが、そこにリテラルな実態があるかのように思い込むのは、民主主義が絶対的な真理を思い込むのと同様に百害あって一利なしと言える。ここは、それこそリチャード=ローティのリベラルアイロニズム的な知恵が必要とされる場面であろう。

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