前に「それを『常識』とする根拠は、もはやどこにもない」という記事で、日本人の法的知識の欠落は(憲法の名宛人など含め)明らかであって、教育内容や共同体の崩壊、あるいはそもそも日本人の法意識を鑑みるならば驚くに値しない、と書いた(こういう主張に対して出てくる愚かな反応の一つは、「私は知っている」というものだ。そういう御仁は個別具体と一般の違いも理解できないらしい)。
これに関しては、単に法知識がない(知る機会がないし知ろうともしない)だけでなく、そもそも近代司法に対しての理解が欠落している点も注意を要する。たとえば今話題となっているカルロス=ゴーンとそれにまつわる報道が典型だが、推定無罪の原則が全くと言っていいほど理解されていないのである(注:つまり以下の記事はゴーンが実際に無実かどうかとは関係がない)。これを指摘したのが「ゴーンに惨敗した日本、森法相の大失言が世界に印象付けた『自白強要文化』」だが、法務大臣が「無罪を証明すべき」などというズレた発言を世界に発信してしまう、つまりシステムがそもそも近代司法の体を為していないと世界に公言してしまうような国なのだから、その国民については推して知るべしということだ(※注)。
記事の中ではその一例として陸山会の件を挙げているが、窪田も述べるように
ほとんどの日本人は口に出さないが、捜査機関に逮捕された時点で「罪人」とみなす。そして、そのような人が無罪を主張しても、「だったら納得できる証拠を出してみろよ」くらい否定的に受け取る傾向があるのだ。
という傾向は各所に見られる(これは政治的な事件より身近に関わりうるものの方が実感が湧きやすいので、私はそういう例を出すことにする)。
例えば足利事件を扱った『殺人犯はそこにいる』では、いかにして警察が容疑者を犯人に仕立て上げようとしていくかが見て取れる点も注意を引くが(ちなみに司法が新しく導入されたDNA型鑑定技術を使い成果を出すことに拘った件は、ゴーンの件含め同じく新たに導入された司法取引制度を使いたがっている状況を連想させる)、私の印象的なシーンの一つは、いわゆる免田事件の免田栄(死刑判決を受けたが、再審で無罪)が釈放された後の、タクシー運転手との会話である。
ああ、免田さんね。あん人は、本当は犯人でしょう。なんもない人が、逮捕なんてされんとですよ。まさか、死刑判決なんか出んとでしょう。今回は一応、無罪になったけど。
この運転手を非難することは容易い。しかし、一体どれだけの人が自分にそういう思考様式がないと断言できるか、胸に手を当てて考えてみてはどうか(私自身も、全くないとは言い難い)。
あるいは、「それでもボクはやってない」のような痴漢冤罪の件もある。痴漢については、冤罪がクローズアップされるのは百歩譲っていいとしても、なぜ批判の矛先が女性にいくのかが私には全く解せない。というのも、その理屈を突き詰めるなら映像や物的証拠のような何か明確なエビデンスが無ければ痴漢被害を訴えるなという負の斥力になるからであって、泣き寝入りをすべきと主張するに等しいからだ。
ではなぜ痴漢冤罪というものが生じるのかを改めて考えると、証明の難しさ他に、そもそも人質司法、つまり「罪を認めるか無罪の証明をせよ。でなければ拘留する」という近代では噴飯ものの「推定有罪の原則」がそこかしこに残り、また国民の多くもまあそういうものだという意識で生きているからだ(それが近代的ではない=「中世的」司法ということである)。だから、否認するより早く罪を認めて保釈された方がよいという流れを作ってしまう。というのも、否認によって拘留されて外部とロクに連絡が取れないなどする中で様々な不利益を被る他、裁判になったとしても「痴漢で訴えられたことそれ自体」がスティグマとして機能しうるからである。
ことほどさように、司法システムや国民の法意識の歪さがいつでも日常を浸食しうるということに無理解だからこそ、いつまで経っても(識者含め)国民の法知識は貧弱なままで、21世紀になっても「推定有罪」の共同幻想は続いているのだ。
なお、これについて「日本はアメリカのような訴訟社会とは違うから」といった反論はもちろんありえるだろう。しかし、実は日本という国も「推定有罪」で多くの人が迫害され、肩身の狭い思いをした経験をしているはずなのだ。それが先日も言及した治安維持法だが、その曖昧な規定によって大量の検挙者を出すとともに、取り調べでは共産主義やコミンテルン(やその外郭団体)と何らかの繋がりがあると無理やり自白させることが行われていた(三・一五事件や四・一六事件で共産党関連の人物が大量に検挙され運動の多くは壊滅したが、いわゆる組織の「焼け太り」的要素もあって、さらなる検挙者を必要とした。その結果として、実は共産党とは関係がない人も検挙することとなり、関係性がないところに関係性があることを自白させ、組織の功績とするような構造が作られていったのである)。
このように私たちは過去の惨劇(悲劇の共有)という要素を持ち合わせており、「アメリカなどとは違う」では済まされないし、またそれを教訓にすることもできたはずである。つまり、治安維持法(など)によって惹起された悲劇を真摯にreflectするなら、司法のあり方も、教育も、国民の法意識も変化する努力をして然るべきだったはずだが、司法の分野は比較的GHQが手を入れにくかったと言われている部分でもあり、戦前的要素が多分に残ってしまったとされる(こういった話については、倉山満『検察庁の近現代史』などを参照)。そしてその陥穽は、いまもって司法制度はもちろん私たちの法意識を強く規定し、現在に至っているのであり、ゴーンに関する案件はそれが噴出して世界中に示された事例と言えるだろう。
※注
文の中には「森法相も同様で、あの発言は言い間違えではない。もともと弁護士として立派な経歴をお持ちなので当然、『推定無罪の原則』も頭ではわかっている。しかし、世論を伺う政治家という職業を長く続けてきたせいで、大衆が抱くゴーン氏への怒りを忖度し、それをうっかり代弁してしまったのだ。」と書いてあるじゃないかと反論がくるかもしれない。まあわざわざ「立派な経歴」と書いてあるという書き手の「皮肉」を読み取れないのかね?というリテラシーの問題はさておいて、これはこれで重要な問題だ。というのも、ゴーンに関する悪魔化の報道もそうだが、日本政府や日本メディアの内向き姿勢が明確に表れているからである。
要は、外に向けては「日本は日本だし問題はねーんだからゴチャゴチャ言うな」(ということは、航空機を誤射したイランがかつてのアメリカの誤射を元にアメリカを悪魔化してきたのがもはやできないように、日本はもはや北朝鮮やサウジアラビアの司法を批判する資格なしってことでOK?)と言いつつ、内向きには相変わらずゴーンは悪いヤツと連呼する報道を垂れ流しにしているのだ(それがなぜ問題なのかは、「ゴーン被告に戦略敗け、法務省・日産・マスコミの緩み切った対応」まどを参照されたい)。
まあ記者クラブ制度による実質的癒着(=大本営システム!)を考えれば今さら驚くべきことではないのだが、ともあれ批判力のないメディアが支配的な状況では、上手くいっている時はいいが上手くいかなくなった時は歯止めがきかず奈落の底へまっしぐらなのは先の大戦と同じであまりに変わってなくて呆れかえるなあとは思う次第である。
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