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※前回、「日本人の「無宗教」について」と題して「宗教的帰属意識」こそが日本
(人)の宗教状況において特殊であると述べた。ここではその根拠などについて書いていきたい。
[問題の提示]
日本人の「無宗教」について考える場合、「実態として無宗教なのか」ではなくて、「無宗教と感じている人が多いのはなぜか」ということを常に意識しなければならない。すなわち、「神道は無宗教なのか?」「仏式葬儀をするなら仏教徒ではないのか?」といったことが二次的な問題であり、「神道がなぜ宗教的帰属意識に絡んでこないのか?」「仏式葬儀がなぜ仏教徒であるという帰属意識につながらないのか?」という視点こそが重要であるという認識に立つことが必要である。
[イスラム世界の事例]
最も重要なのは、日本人が自分のことを「無宗教」だと感じていること(=日本人の宗教的帰属意識のあり方)である。世界には、数多くの宗教と信徒が存在し、生活を営んでいる。そしてそこに、様々な信仰の形態があることは言うまでもない。私の専門分野に関連して言えば、例えばムスリムと酒の問題がある。この文章の趣旨から、いちいち専門的な考察をすることはしないが、クルアーンにおいては「(果実)酒は忌避すべきもの」といった傾向が見られ、それがいわゆるイジュマー[法的見解に対する合意]としてイスラム世界で認められてきたという経緯がある(もちろん、酩酊するまで飲まなければよい、といった解釈もある)。
しかし、少しでも実態を見れば、それが遵守されていなかったことがわかる。例えば11cセルジューク朝以降の君主層を始めとした多くの人間が、飲酒を(人によってはあけっぴろげに)行っているのである。しかし、彼らがそれによりムスリムではなくなったとかいう記述はない。明らかな背信行為であるにも拘らず、だ(四台法学派の一つハナフィー派の一部の解釈を除けば、法学上背信行為は背教・棄教を意味する)。
もちろんここには、権力者に対するウラマー[イスラム知識人]やカーディー達[イスラム裁判官]の配慮などといったものが介在していることは否定できない。とはいえ、戒律と宗教及び棄教・無宗教といった問題を考える上で、一つの興味深い事例と言えるのではないか。以上は中世イスラム世界の話である。では現代についてはどうだろうか?
この問題を現代のトルコ人ムスリム(トラブゾンからイスタンブールに向かう長距離バスの中で出会った大学生。詳しくは別個に述べる予定。)に聞くと、興味深い答えが返ってきた。すなわち、(現在トルコで昼間から酒を飲んだりしている)彼らは、「戒律に反すると知りつつ酒を飲んでいる」と言うのである。これは、明らかな背信行為=棄教行為と知りつつそれを行い、しかもムスリムとしてイスラムへの帰属意識は変化していないことを意味する。
もちろん、これには批判も出るだろう。様々な信仰形態の一つに過ぎない、と。実際、99%がムスリムのトルコで、全身黒ベールの女性、頭部だけベールをしている女性、ベールをしないが肌の露出には気を使う女性、半袖などで体のラインがはっきり出る服をきている女性、など様々な女性の服装(そしてこれはそのまま信仰の形態につながる)を見て、トルコでの宗教のあり方、そしてイスラムの多様な信仰の形態というものを肌で実感することができたのは確かである。
というより逆に、トルコにはまことに多様な信仰形態が存在するにも拘らず、彼らの99%が「ムスリムである」と認識しているというのがここでは重要なのである。(続く)
(人)の宗教状況において特殊であると述べた。ここではその根拠などについて書いていきたい。
[問題の提示]
日本人の「無宗教」について考える場合、「実態として無宗教なのか」ではなくて、「無宗教と感じている人が多いのはなぜか」ということを常に意識しなければならない。すなわち、「神道は無宗教なのか?」「仏式葬儀をするなら仏教徒ではないのか?」といったことが二次的な問題であり、「神道がなぜ宗教的帰属意識に絡んでこないのか?」「仏式葬儀がなぜ仏教徒であるという帰属意識につながらないのか?」という視点こそが重要であるという認識に立つことが必要である。
[イスラム世界の事例]
最も重要なのは、日本人が自分のことを「無宗教」だと感じていること(=日本人の宗教的帰属意識のあり方)である。世界には、数多くの宗教と信徒が存在し、生活を営んでいる。そしてそこに、様々な信仰の形態があることは言うまでもない。私の専門分野に関連して言えば、例えばムスリムと酒の問題がある。この文章の趣旨から、いちいち専門的な考察をすることはしないが、クルアーンにおいては「(果実)酒は忌避すべきもの」といった傾向が見られ、それがいわゆるイジュマー[法的見解に対する合意]としてイスラム世界で認められてきたという経緯がある(もちろん、酩酊するまで飲まなければよい、といった解釈もある)。
しかし、少しでも実態を見れば、それが遵守されていなかったことがわかる。例えば11cセルジューク朝以降の君主層を始めとした多くの人間が、飲酒を(人によってはあけっぴろげに)行っているのである。しかし、彼らがそれによりムスリムではなくなったとかいう記述はない。明らかな背信行為であるにも拘らず、だ(四台法学派の一つハナフィー派の一部の解釈を除けば、法学上背信行為は背教・棄教を意味する)。
もちろんここには、権力者に対するウラマー[イスラム知識人]やカーディー達[イスラム裁判官]の配慮などといったものが介在していることは否定できない。とはいえ、戒律と宗教及び棄教・無宗教といった問題を考える上で、一つの興味深い事例と言えるのではないか。以上は中世イスラム世界の話である。では現代についてはどうだろうか?
この問題を現代のトルコ人ムスリム(トラブゾンからイスタンブールに向かう長距離バスの中で出会った大学生。詳しくは別個に述べる予定。)に聞くと、興味深い答えが返ってきた。すなわち、(現在トルコで昼間から酒を飲んだりしている)彼らは、「戒律に反すると知りつつ酒を飲んでいる」と言うのである。これは、明らかな背信行為=棄教行為と知りつつそれを行い、しかもムスリムとしてイスラムへの帰属意識は変化していないことを意味する。
もちろん、これには批判も出るだろう。様々な信仰形態の一つに過ぎない、と。実際、99%がムスリムのトルコで、全身黒ベールの女性、頭部だけベールをしている女性、ベールをしないが肌の露出には気を使う女性、半袖などで体のラインがはっきり出る服をきている女性、など様々な女性の服装(そしてこれはそのまま信仰の形態につながる)を見て、トルコでの宗教のあり方、そしてイスラムの多様な信仰の形態というものを肌で実感することができたのは確かである。
というより逆に、トルコにはまことに多様な信仰形態が存在するにも拘らず、彼らの99%が「ムスリムである」と認識しているというのがここでは重要なのである。(続く)
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