さて、残滓も第三段だが、割と多くが「文脈」という共通性を持っているようである。<生と消費>は「最近心に残った言葉」などと繋がる。例えば、言うのもアホらしい話だが、基本的人権なるものは政治的な取り決めにすぎないのであって、自明の「真理」などではない。そこを勘違いするからおかしなことになるのだ。ってあーやっぱり説明しちまうな~。丸投げってむしろ難しいや…
<前提を考えない弊害> 2007-01-11 02:24:37
前々回、前提を失った言葉は「規則」であることを述べた。今回は、最近読んだオノ・ナツメの『LA QUINTA CAMERA~五番目の部屋~』を例として挙げたい。
イタリアへ留学したシャルロットと現地人のチェレたちのやり取りでこんなセリフがある。
シャルロット
「会ってすぐに人の事つまらないなんて云わないで」
チェレ
「いやつまらないね。北欧あたりから来たんだろ?ヴァカンスでひとり旅か?夏が近づくと君みたいな外国人が南下して来て町にあふれるんだ。なんでかって聞いたら自分の周りは刺激がないって、そりょこの国は明るいし開放的で楽しみがいっぱいに思えるんだろうけどさ。自分の国で楽しみを見つけられない奴らなんて、つまらないだろ。」
上のチェレのセリフはシャルロットが語学留学生であることを知らない状態のものであり、ゆえに彼女に対しては少々的外れなものだし後でチェレ自身が訂正してもいる。しかし、旅行者一般に対しては、なかなかに説得力のある批判・警句であるように思える。
問題はここからだ。例えばこの言葉に惹かれたからといって、外国へ旅行することの意味や効果を否定するのだとしたら、それは言葉の前提を捨象して「規律」化する行為だと思う。というのも、チェレの言葉にもあるように、海外への旅行には(たとえ刺激が欲しいだけのものでも)現状で満足しない探究心が必要だ。また、海外旅行で得た刺激が、日常に埋もれていた生活環境の特異性などを気付かせてくれることもあるだろう。このように、少し述べただけでも海外旅行の意味・効果の大きさは(もちろん個人差はあれ)明らかである。では、チェレの批判は不当なのだろうか?私はそうは思わない。
<普通と異常> 2007-01-23 01:02:13
100%「普通の人」というのは存在しない。
だから100%「異常な人」もまた存在しない。
仮にそういう人がいたとしても、それは人語の全く通じない存在であって、
ゆえに人というより獣であると言った方が適切だからだ。
<生と消費> 2007-03-10 01:14:28
生きるということは、「ただそれだけで素晴らしいこと」などではありえない。
生きるということは、消費し続けることだからだ(これを浪費と見れば自罰的な発想になるが)。
あるいは、他人の生き血を吸い、また他人から自分の生き血を吸われること、と言い換えるのも可能だろう。
その意味では、
<ぐりざべら> 2007-06-26 01:32:05
前掲の記事のように考えてみると、君が望む永遠に対する「感情移入できない」という評価の原因も見えてくる。この作品は、完全に現実を反映しているとは言えないまでも、全く現実を逸脱した設定はない(SFやオカルトや奇跡はない。沙耶の唄や青空、kanonの類ではなく同級生に近い、と言えばわかりやすいか)。しかもその中で、かなり生々しい感情表現がなされているのである。
それでもプレイヤーは「感情移入」を行おうとする(※)。しかし、プレイヤーの意図は挫かれる。というのも、主人公は(おそらく)プレイヤーの快楽原則にそぐわないからである(カラマーゾフの序文でドストエフスキーが主人公たちをどのように位置づけていたかを想起したい。主人公が理想の体現で無ければならないというのは幻想に過ぎない)。ある者は反論を見越してか「自分が孝之の立場だったら…する」などと書いているのだが、こういった批判自体、その人が君が望む永遠の主人公を全く理解できてないししようともしていないことを自白しているのだ(※2)。
というのも、この作品において、「主人公≠プレイヤー」というのはほとんど自明のことだからだ(※3)。詳しく言えば、第一章から続くキャラクター動詞の関係が行動に深く影響していること、のみならず、主人公の心の動きが事細かに表現され、その他の可能性(想像の余地)が排除されていることを意味する。細かな文脈規定と細かな感情表現…それはあまりによくできている(細かい)が故に、主人公の他者性をプレイヤーに否が応でも印象付ける。先の「自分が孝之の立場なら…」という輩たちは、そのことに気付かなかったことを暴露してしまっているのである。もし気付いているならこう批判しているはずだから。「もっとプレイヤーが入り込み易い構成にしておけばよかった」と。
というか、地獄の三年間を背負いながら、死と隣合せですらある遥と水月(両者の一見するとアンバランスな状況のもたらす効果についてはすでに述べたとおりである)の間に挟まれ、過去の罪悪感と現在に苦悩する孝之に「感情移入」できると言うのは、唯我独尊(自分が全ての基準)の者か白痴かのどちらかだろう。「感情移入」のまやかしに気付き、「鳴海孝之の文脈」で彼の行動や物語の展開を考えるようになってはじめて、君望の深みは理解されることだろう。
■感情移入?
もしほんとにできるんなら、生霊を憑つせるシャーマンにでもなったらどうだろうか。
※
前回指摘した一般的な「感情移入」の傾向のみならず、ここには従来型のADVの主人公が「白紙的人格」(色々なキャラとの恋愛を可能にするご都合的人格)を持っていることも関係している。
※2
いやそれでも、孝之がどんな状況かを理解しての言ならわかる。しかし、地獄の三年間の空白を埋めようとしているレビューは見たことがないし、また遥の前での言動がどれほどフェータルなものかを考慮に入れた記事もなかった。これはつまり、「感情移入」とかのたまっているプレイヤーが、所詮は表面的な部分しか見ていなかったことを意味している。正直、第一章が主人公の行動原理を規定しているという当たり前の事実さえ本当に理解して(=それが第二章の行動とどのように関係しているかを常に注意する)いる人さえどれほどいるのか疑わしい。
※3
プレイヤーに選択の余地を与えている点で、プレイヤー=主人公という誤解を招くような仕組みを残しているのは問題であると言えるかもしれない。ただし、これは(まさにどっちにも転びうるような)主人公の揺らぎを選ばせているのだと考えられる(あえて言うなら、どっちを選んでも何か重大なものを失ったりするなど選択が重過ぎるetc...)。なお、サブキャラのシナリオのありえない選択肢群をどう評価するかは重要である。あえて言うなら「物語性とゲーム性を両立させようとした」結果だが、蛍シナリオの導入など見るに耐えない酷さを誇っており、これが本作の評価をある面で著しく下げる要因となっている(しかし蛍シナリオないし蛍の存在自体は君望の中で決して抜かすことのできないほどの重要性を持っている点が評価を難しくしているのだが…)。
<宗教とイメージ:教団と選択の放棄> 2007-07-01 02:24:40
宗教が選択を放棄するがゆえに自由を奨励する時代では忌避されるという前回の記事に対し、宗教は葛藤や数々の疑問・苦悩との戦いを内包するものであり、そのような見方は一面的であるとの批判があるかもしれない。しかし、「無宗教」を分析する際に宗教的かどうかではなく宗教に属しているかという認識が問題であるのと同様に、宗教離れを分析する際、宗教の実態以上に宗教に対するイメージが重要なのである。
そして日本人の宗教に対するイメージは、恐ろしく貧しいものであると推測される。なぜなら、イメージどころかそもそも基礎的な知識さえ教えられていないからである。人はえてして自分の理解できないものを忌み嫌うものだが、宗教は教えられないことでその一列に加わるばかりか、何かを信仰するという行為自体が大なり小なり選択の放棄を伴うため、ますます遠ざけられる。そして教団ともなれば、そうして選択の放棄を行う人間達がさらに選択を狭め(規律などを定め)ている集団と認識されるので、自由を奨励する、言い換えれば選択肢の多いことを是とする社会にあってその存在が歓迎されないのは必然的なことなのかもしれない。
なお、「平等」の観念と宗教の衰微も実は関係があると思われるが、それは次の機会に譲りたいと思う。また、私の友人によると、日本人は「戒律嫌い」ということが言われているらしい。そのあたりを今度調べてみつことにしよう。
(選択の意味)
過去、自分で字を書くのは当たり前であった。一方今では会社などにパソコンがあるって肉筆が減っているため、その価値はむしろ高まっていると言えるのではないか?字で書くという選択が無くなったのではなく、新しい状況を経て新しい意味づけ(ex温かさ、誠実さetc...)が付与されたと見るべきだろう。
<前提を考えない弊害> 2007-01-11 02:24:37
前々回、前提を失った言葉は「規則」であることを述べた。今回は、最近読んだオノ・ナツメの『LA QUINTA CAMERA~五番目の部屋~』を例として挙げたい。
イタリアへ留学したシャルロットと現地人のチェレたちのやり取りでこんなセリフがある。
シャルロット
「会ってすぐに人の事つまらないなんて云わないで」
チェレ
「いやつまらないね。北欧あたりから来たんだろ?ヴァカンスでひとり旅か?夏が近づくと君みたいな外国人が南下して来て町にあふれるんだ。なんでかって聞いたら自分の周りは刺激がないって、そりょこの国は明るいし開放的で楽しみがいっぱいに思えるんだろうけどさ。自分の国で楽しみを見つけられない奴らなんて、つまらないだろ。」
上のチェレのセリフはシャルロットが語学留学生であることを知らない状態のものであり、ゆえに彼女に対しては少々的外れなものだし後でチェレ自身が訂正してもいる。しかし、旅行者一般に対しては、なかなかに説得力のある批判・警句であるように思える。
問題はここからだ。例えばこの言葉に惹かれたからといって、外国へ旅行することの意味や効果を否定するのだとしたら、それは言葉の前提を捨象して「規律」化する行為だと思う。というのも、チェレの言葉にもあるように、海外への旅行には(たとえ刺激が欲しいだけのものでも)現状で満足しない探究心が必要だ。また、海外旅行で得た刺激が、日常に埋もれていた生活環境の特異性などを気付かせてくれることもあるだろう。このように、少し述べただけでも海外旅行の意味・効果の大きさは(もちろん個人差はあれ)明らかである。では、チェレの批判は不当なのだろうか?私はそうは思わない。
<普通と異常> 2007-01-23 01:02:13
100%「普通の人」というのは存在しない。
だから100%「異常な人」もまた存在しない。
仮にそういう人がいたとしても、それは人語の全く通じない存在であって、
ゆえに人というより獣であると言った方が適切だからだ。
<生と消費> 2007-03-10 01:14:28
生きるということは、「ただそれだけで素晴らしいこと」などではありえない。
生きるということは、消費し続けることだからだ(これを浪費と見れば自罰的な発想になるが)。
あるいは、他人の生き血を吸い、また他人から自分の生き血を吸われること、と言い換えるのも可能だろう。
その意味では、
<ぐりざべら> 2007-06-26 01:32:05
前掲の記事のように考えてみると、君が望む永遠に対する「感情移入できない」という評価の原因も見えてくる。この作品は、完全に現実を反映しているとは言えないまでも、全く現実を逸脱した設定はない(SFやオカルトや奇跡はない。沙耶の唄や青空、kanonの類ではなく同級生に近い、と言えばわかりやすいか)。しかもその中で、かなり生々しい感情表現がなされているのである。
それでもプレイヤーは「感情移入」を行おうとする(※)。しかし、プレイヤーの意図は挫かれる。というのも、主人公は(おそらく)プレイヤーの快楽原則にそぐわないからである(カラマーゾフの序文でドストエフスキーが主人公たちをどのように位置づけていたかを想起したい。主人公が理想の体現で無ければならないというのは幻想に過ぎない)。ある者は反論を見越してか「自分が孝之の立場だったら…する」などと書いているのだが、こういった批判自体、その人が君が望む永遠の主人公を全く理解できてないししようともしていないことを自白しているのだ(※2)。
というのも、この作品において、「主人公≠プレイヤー」というのはほとんど自明のことだからだ(※3)。詳しく言えば、第一章から続くキャラクター動詞の関係が行動に深く影響していること、のみならず、主人公の心の動きが事細かに表現され、その他の可能性(想像の余地)が排除されていることを意味する。細かな文脈規定と細かな感情表現…それはあまりによくできている(細かい)が故に、主人公の他者性をプレイヤーに否が応でも印象付ける。先の「自分が孝之の立場なら…」という輩たちは、そのことに気付かなかったことを暴露してしまっているのである。もし気付いているならこう批判しているはずだから。「もっとプレイヤーが入り込み易い構成にしておけばよかった」と。
というか、地獄の三年間を背負いながら、死と隣合せですらある遥と水月(両者の一見するとアンバランスな状況のもたらす効果についてはすでに述べたとおりである)の間に挟まれ、過去の罪悪感と現在に苦悩する孝之に「感情移入」できると言うのは、唯我独尊(自分が全ての基準)の者か白痴かのどちらかだろう。「感情移入」のまやかしに気付き、「鳴海孝之の文脈」で彼の行動や物語の展開を考えるようになってはじめて、君望の深みは理解されることだろう。
■感情移入?
もしほんとにできるんなら、生霊を憑つせるシャーマンにでもなったらどうだろうか。
※
前回指摘した一般的な「感情移入」の傾向のみならず、ここには従来型のADVの主人公が「白紙的人格」(色々なキャラとの恋愛を可能にするご都合的人格)を持っていることも関係している。
※2
いやそれでも、孝之がどんな状況かを理解しての言ならわかる。しかし、地獄の三年間の空白を埋めようとしているレビューは見たことがないし、また遥の前での言動がどれほどフェータルなものかを考慮に入れた記事もなかった。これはつまり、「感情移入」とかのたまっているプレイヤーが、所詮は表面的な部分しか見ていなかったことを意味している。正直、第一章が主人公の行動原理を規定しているという当たり前の事実さえ本当に理解して(=それが第二章の行動とどのように関係しているかを常に注意する)いる人さえどれほどいるのか疑わしい。
※3
プレイヤーに選択の余地を与えている点で、プレイヤー=主人公という誤解を招くような仕組みを残しているのは問題であると言えるかもしれない。ただし、これは(まさにどっちにも転びうるような)主人公の揺らぎを選ばせているのだと考えられる(あえて言うなら、どっちを選んでも何か重大なものを失ったりするなど選択が重過ぎるetc...)。なお、サブキャラのシナリオのありえない選択肢群をどう評価するかは重要である。あえて言うなら「物語性とゲーム性を両立させようとした」結果だが、蛍シナリオの導入など見るに耐えない酷さを誇っており、これが本作の評価をある面で著しく下げる要因となっている(しかし蛍シナリオないし蛍の存在自体は君望の中で決して抜かすことのできないほどの重要性を持っている点が評価を難しくしているのだが…)。
<宗教とイメージ:教団と選択の放棄> 2007-07-01 02:24:40
宗教が選択を放棄するがゆえに自由を奨励する時代では忌避されるという前回の記事に対し、宗教は葛藤や数々の疑問・苦悩との戦いを内包するものであり、そのような見方は一面的であるとの批判があるかもしれない。しかし、「無宗教」を分析する際に宗教的かどうかではなく宗教に属しているかという認識が問題であるのと同様に、宗教離れを分析する際、宗教の実態以上に宗教に対するイメージが重要なのである。
そして日本人の宗教に対するイメージは、恐ろしく貧しいものであると推測される。なぜなら、イメージどころかそもそも基礎的な知識さえ教えられていないからである。人はえてして自分の理解できないものを忌み嫌うものだが、宗教は教えられないことでその一列に加わるばかりか、何かを信仰するという行為自体が大なり小なり選択の放棄を伴うため、ますます遠ざけられる。そして教団ともなれば、そうして選択の放棄を行う人間達がさらに選択を狭め(規律などを定め)ている集団と認識されるので、自由を奨励する、言い換えれば選択肢の多いことを是とする社会にあってその存在が歓迎されないのは必然的なことなのかもしれない。
なお、「平等」の観念と宗教の衰微も実は関係があると思われるが、それは次の機会に譲りたいと思う。また、私の友人によると、日本人は「戒律嫌い」ということが言われているらしい。そのあたりを今度調べてみつことにしよう。
(選択の意味)
過去、自分で字を書くのは当たり前であった。一方今では会社などにパソコンがあるって肉筆が減っているため、その価値はむしろ高まっていると言えるのではないか?字で書くという選択が無くなったのではなく、新しい状況を経て新しい意味づけ(ex温かさ、誠実さetc...)が付与されたと見るべきだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます