南北朝時代のカオス:「合理的思考」の集合が何をもたらすか

2021-09-25 17:04:04 | 歴史系

漫画「チ。ー地球の運動についてー」とフラットアースについて書いた記事では、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という内容を書き、「実感信仰」について批判した。これは要するに、己の経験則や論理的・合理的思考に基づいて物事を考察するのは重要だが、それと同時に「所詮は完全情報を得られない井の中の蛙に過ぎない」という戒めが必要だ、という話でもある(だから実証・検証の重要性や、あるいはその前提となる「穏健な懐疑主義」が肝要なのだ)。

 

歴史で考えた場合には、三十年戦争の顛末、ナポレオン3世の政権奪取、ファシズム政権に対する宥和政策、独ソ不可侵条約締結とその波紋・・・という具合に、完全情報下にない以上は各々が各々の合理的戦略に則って行動するしかないが(もちろんミスも数多くあり、全てが最善手なわけではない)、その結果として大変カオスな状況が現出するという事例を私たちはいくらでも観測することができる(これは戦時日本のいわゆる「無責任体制」についても同じことが言える)。

 

こういった事例は人間の必謬性というものを否が応でも認識させるが、以下で取り上げたいのは日本の歴史の中でもカオスな時期の一つと言える室町幕府、特に南北朝時代である(他にも中世ヨーロッパや応仁の乱以後の室町時代とかも以前取り上げている)。

 

こういった知見を踏まえれば、人間の、まして一個人の思う合理性など、歴史という大海の中では「ひとえに風の前の塵に同じ」であり、ゆえに実感を一般的真理として正しいはずと短絡させるような思考態度は、厳に慎まなければならないと気づくのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 


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