今日は予定を変更して川崎の通り魔事件について触れておきたい(短いバージョンで)。
痛ましい事件であり、また多くの人が表明しているように、私にも怒りはあるし、哀しみもある。しかし、ただそれを表出しているだけではこの先似たような事件は形を変えて起こるだろうし、この悲劇自体間もなく風化してしまうだろう。
要するに対応策が必要という話だが、その点でもこの事件が突き付けているものは、重い。というのも、GPSやアラーム機能、監視カメラ、死刑、厳罰化などなど、(件数はともかく)凶悪犯罪が起きる度に対策が議論の俎上に上るが、今回のように「その場で自殺=破滅することを前提で犯罪を起こしている」場合、それらは全くと言っていいほど抑止力にならないことを示しているからだ(もちろん、誘拐目的の付け回し等への対処であれば、話は別である)。
というわけで、事件への怒りと上記のような対策法が無効であることから「一人で死んでくれ」というコメントが乱れ飛ぶことになる。是非はともかく、それは自然な流れだと私は思う。一方で、それを表明しても事件の防遏には何ら寄与しないとも考える。というのは、類似の不全感を抱えていた(いる)であろう人たちは、多くがそのまま自殺し、その中のごく一部が今回のような(一説によると)拡大自殺を図るものだからだ。
犯罪対策の一環で加害者の社会的包摂や承認欲求の枯渇をどう手当てするか、という方向性の話をするとあたかも加害者側に同情しているかのように自分自身が感じてしまうかもしれない。しかし、次なる悲劇の発生リスクを極限まで縮小することこそが重要だと理解すれば、同情するか・しないかの二項対立による感情的な石の投げ合い(≠生産的な意見交換)などただの自己満足であることは誰でも理解できるはずだ(「同情ではなくリスク管理の問題」という例として、あえて離れた時代の話をすると、江戸の武断政治から文治政治への転換などを想起するのもいいだろう)。
まして、少子高齢化・孤独死・未婚率の増加・就職氷河期世代の高齢化(関連して8050問題)など多数の問題を抱え、これから凋落していく可能性が高い日本という場においては、そういった議論こそ必要不可欠だと思うのである。
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