岡崎京子の真価:秋の日は釣瓶落とし

2018-04-22 12:20:55 | 本関係

桐島=K   前田=M 

 

K
「チワワちゃん」、映画化されるってよ。

 

M
個人的には一番嬉しい映画化だね。

 

K
でも知名度は「ヘルタースケルター」や「リバーズ・エッジ」の方が上やん?

 

M
そりゃあね。だから先に映画化された訳だし。実際両方とも優れた作品だと思うよ。

 

K
じゃあ何で「一番嬉しい」わけ?

 

M
岡崎京子の作風をわかりやすく分類すると、89年掲載の「pink」に代表されるような明るいものと、93年の「リバーズ・エッジ」に代表される殺伐としたものがある。だけど、彼女の作品てそう単純ではないし、もっと豊かだと思うんだよね。

 

K
ああ、宮台真司がKAWADE夢ムックの中で似たようなこと言ってたな。確か真逆のように見えて、実は同じ現実に対する諦め、ニヒリズムが支配している、と。

 

M
そうそう。彼女は80年代から90年代にかけて作風を変えたのではなく、そもそも両方の要素を持ち合わせていて、社会への透徹した眼差しと断念は変わっておらず、それをどう表現してるかの違いに過ぎないんだよね。で、94年のチワワちゃんは、pink的要素とリバーズ・エッジ的要素が見事に混淆していて、彼女の作品の豊かさを感じるのに最適な作品の一つだと思う。だから、岡崎京子の魅力を多くの人に知ってもらえる可能性が高くなるんじゃないかな、という理由でチワワちゃんの映画化は喜ばしいわけよ。

 

K
確かにねえ。彼女は時代のアイコンみたいにみなされてるけど、もっと遥かに深みのある作家だからなあ。80年代終わりのpinkがバブルの爛熟期でYMOとかが流行した社会の空気感を象徴しているから、時代を追いかけているような、時代を写し取ったような「考現学」的作家に見えるのは理解できるけど、93年のリバーズ・エッジや94年のチワワちゃんは明らかに時代を先取りしてるもんね。

 

M
バブル期のモードから殺伐としたムードに変わっていくのは95年が転換期だからね。バブル崩壊こそ1991年から1993年の間とされてるけど、実際に社会のムードが劇変するのは95年1月の阪神大震災と95年3月のオウム事件であり、それを最もわかりやすく象徴する作品が95年10月~96年3月に放映されたエヴァンゲリオン。97年の劇場版でも繰り返し描かれたのは、人に承認されるためにずっといい子でいようとする主人公の苦悩と、結局他人は理解できないという話で、あれは社会現象と言っていいくらいに影響が大きかったという意味でもエポックメイキングな作品だろう。

 

K
でもお前はあまり影響を受けた記憶がない、と。

 

M
まあ俺は割と早い頃から他人はよーわからん存在だと思ってるからね。だから別にあの内容でショックは受けない。おもしろい作品だとは思うけど。ちょうどエヴァンゲリオンが始まった中2の時の実感が「極限状況での振る舞い」なわけで、もっと遡れば小4の「宗教と思索」だから、むしろ何でみんな他人のことをわかるとか思ってるのかね?みたいな。予測ができることと、わかることって同じじゃないと思うんだが。まあそれは『J』絡みで書くとして話を戻そう。

 

K
ただ、エヴァって最終的には「女が怖い」って話なんじゃないの?巨大化とか「気持ち悪い」発言とか。なんかどちらかというと男、あるいは庵野秀明目線な感じがするけど。

 

M
まあそう見える部分もあるけど、そこはアスカやミサトの生い立ちを思い出すといいんじゃない?ただ女性ないし女子に関しては、97年の「少女革命ウテナ」の方がわかりやすいかもね。

 

K
ああ、あれって最初はテンプレみたいな話だけど、そこで引っ張って最終的には少女の夢ウヴァーァ!!!という内容だからな。

 

M
まあウテナはタイムリーに見てなかったし、それに対する社会の反応がどうだったのかについては詳しく知らないけど、男子的な目線でも、女子的な目線でも、このほぼ同じ時期の代表的作品が社会の押し付ける幻想とその終わりを描いていることは事実で、バブルが終わって高揚感が無くなったところに終末感すら漂わせる事件が立て続けに起こった世相をよく表していると思うね。

 

K
それってバブルが終わって社会が悪くなったってこと?

 

M
「経済成長で誤魔化されてきたものが、上げ底のなくなった瞬間に露呈した」ってのが正確じゃないかね。だから、89年のpinkはバブル期であるにもかかわらず、底にあるのは社会へのシニカルな視点と諦めなわけで。それゆえに、95年を待たずして岡崎京子はリバーズ・エッジとチワワちゃんを描いてるし、また描けてるわけよ。彼女がオウム事件やそれに引きずられた世相を見て作風を変えたというのは間違いである、という点は強調しておきたい。ところで、これに関して取り上げたいのが、個人的には岡崎京子の中で最高傑作だと思う「秋の日は釣瓶落とし」。

 

「秋の日は釣瓶落とし」の画像検索結果

 

K
えーとこれは出版が2006年!?だって彼女の活動は・・・

 

M
もちつけ。奥付見りゃわかるけど、92年に「週刊漫画アクション」掲載された作品でリバーズ・エッジよりも前だよ。

 

K
68ページって割と短いけど、どんな内容なの?やっぱりティーンエージャーが主人公なの?

 

M
そこがまず違くて、主人公は27歳の専業主婦なんだよね。85年の「セカンド・バージン」みたいな事例もあるけど、非常に珍しい。

 

K
それで話の内容は?

 

M
まずある男29歳の父親54歳の葬式から始まる。どうも過労死らしい。そこでおそらく主要登場人物となりそうなその妻27歳と男の母親53歳の顔が出てきて、あれ?なんか岡崎京子に登場するティーンはどうした???と思っていたところに若い女が出てきてああこれがpinkみたいに主人公なのかなと思ったところで25歳の次男だと紹介が出てきてぶべらっとなったところで今度はそれに他人行儀な挨拶をする、つまり身内としてその存在を認めようとしない母と、それに手伝いを申し出る次男。で、母がぶっ倒れる。

 

K
なんかいきなりスゲー急展開やな。

 

M
まあ象徴的に言えば、日常からいるべき存在が消えて、いるべきではないとされていた存在が日常に立ち現れるという状況だよね。そうして自分たちの住んでいた世界が徐々にではあるが、確かに変わっていく。ただ、そこで描かれる話がすごくてさ、過労死・LGBT・シングルマザー・介護・「お一人様の老後」とかなんだよね。離婚や不倫もそうだけど。

 

K
完全に現状とリンクするじゃん。

 

M
まさにそうで、25年以上経ってるのに、古びてないどころか、昨日書きましたって言われても通じる内容なんだよ。しかも、これだけ社会問題が詰まってるから殺伐とした内容なのかなと思いきや、どこか明るさを失わないんだよね。多くの胸をつまされる場面があるのだけど、しかし絶望に打ちひしがれてお話が停滞することはない。

 

K
それは作者が明るく描こうとしてるってこと?

 

M
まあそう見える人もいるかもしれないね。でも、一つの理由は作者がこれを問題や状況についての「告発の書」としていないことだと思う。じゃなかったら、夫に対する最後の手紙はありえないからね。それに(あえてどういう女性かは言わないけど)律子だって、彼女なりに義母と接しようとして存在を知覚すらされず、耐えかねての申し出なわけじゃん?抑圧者と被抑圧者、強者と弱者みたいにわかりやすく描こうとするなら、これらの描写は絶対ありえないところだよ。「普通」を核家族とするなら、そこからパージされた存在たちが必ずしもずっと連帯してるわけでもないしね。

 

K
まあそもそも岡崎京子って善・悪みたいな書き方はしない作家だと思うけど。

 

M
そうだね。だからこれは優しさというのとは少し違くて、社会に振り回される人間の一人、つまり自分と同じ存在とみなして描いているからなじゃないかなと思う。まあ確かにと言うか、俺は夫の身勝手さには馬乗りになってボコボコにしてやりたくなるけど、一方で自分(たち)も大なり小なりこういう自分勝手さを知らずに振りまいて生きてるんじゃないか、いやというか確実にそういう側面があるなと思って振り上げた拳を下ろせなくなってしまうのさ。もっと抽象的に言うなら、「普通」という名の暴力と言ってもいい。

 

K
ああ、それは次男の存在を身内として受け入れないどころか存在しないものとして扱う母親の姿に典型的に表れてるね。

 

M
そう。むしろ次男の気づかいや発言が人間として極めて「まとも」なので、一体「狂ってる」のは誰なのか?何なのか?と問わずにはいられない。だから、サラリーマンの男に対する言葉が胸に刺さるんだ。「まだあのように忙しいですか?あの忙しさは何ですか?何でああも忙しくてはならなかったんでしょう?」。なるほど世間一般から見れば、次男より長男の方がまっとうに見えるだろうよ。でもよくよく振り返ってみたら、自分は、あるいは自分たちは、一体何のために何をやってるんだろう?とね。まともに生きるって一体何なんだ?うまく生きてるつもりだったのに一体どこで間違えたんだ?と。

 

K
こんなはずじゃなかった、てわけね。

 

M
そういうこと。まあ今では当時よりパイが小さくなって今後も小さくなり続ける公算が高いので、そうは思っても必死に歯車となり続けないといつアンダークラスに転落するかわからんので、結局必死にレールに乗れるよう努力するしかない、みたいな状況になっとるのがもの悲しいね。で、これに関して言うと、「秋の日~」では、様々なすれ違いやトラブル、苦悩が次々と降りかかってくるんだけど、哀しみや物思いに沈んでいる暇すらない、という苦しい状況を描いてもいるのだと思う。

 

K
その苦しい状況ってのは、「この世界の片隅に」で言えば、親類が亡くなった喪失感と罪悪感の中で号泣して打ちのめされても、明日降ってくる爆弾には対処していかなくてはいけない、みたいなもんかい?

 

M
そんな感じ。苦悩や慟哭の描写がずっと続かないという意味では受け手への精神的プレッシャーは緩和されるけど、実際に描いているのは「状況がいかに非人間的か」ということに他ならない。その意味で、この作品の明るさはむしろペーソスによって成り立っていると言っていいんじゃないかな。だから俺は、これを読んだ後で、pinkの明るさが社会への透徹した眼差しやシニカルさに裏打ちされているという説明が、ようやく腹の底から理解できた気がするよ。あと、主人公は色々な点で自分が「被害者」として主張することも可能な立場だと思うんだけど、そうはせずに母であった人や弟であった人たちと「その中でどう生きていくか」を模索してくんだよね。その中身そのものはあまり掘り下げられないけど、それは多分この作品のテーマじゃないからだろう。

 

K
でも、問題があるならそれは告発すべきなんじゃないの?

 

M
そこは評価が分かれるところだね。マイノリティにスポットを当てるという点では「ヒヤマケンタロウの妊娠」みたいな描き方もあるし、上野千鶴子の「おひとりさまの老後」「女たちのサバイバル作戦」、あるいは「最貧困シングルマザー」みたいな著作もあるのは事実。ただ、一つの作品に全てを求めようとするのは間違っているんじゃないかな?告発調やべき論が絶対必要とは思わないし、それが失わせてしまうものもあるだろう。少なくとも俺はこの作品を見て「確かに社会はこうなっている」と感じて慄然としたし、この作品の表面的な明るさによって問題の深刻さが読み取れないというのなら、俺はその人間を精神的盲人と評価するけどね。

 

K
まあ実際に告訴とかがなければ変わらない現状を見ると、この社会は精神的盲人の巣窟なんじゃない?

 

M
そうかもね。ともあれ、この作品はチワワちゃんと同じでpinkとリバーズ・エッジの中間をなす作品だと思うんだよね。この話を殺伐系にドライブすると、今度は96年の「ヘルタースケルター」みたいに「どう生き延びるか」というサヴァイブ系へとなっていくんじゃないか、という意味も含めてね。ちなみにサヴァイブ系はゼロ年代の作風に特徴的だけど、それについても先取りしてた作家と言えると思う。まあヘルタースケルターについては整形やダイエットの件と絡めていずれ書きたいけどね。

 

K
岡崎京子って若い子の視点を通して社会を描いた作家だと思ってたけど、違う観点でそんな深い作品を描いていたんだなあ。

 

M
まさしく。「秋の日は釣瓶落とし」って題名は秋は急速な勢いで日が暮れるという意味で、作者は主人公たちの生活の劇的変化をその言葉に象徴させたんだろうけど、実際にこれが日本社会そのものにも当てはまるという点でまさに時代を先取りした作家だと思うよ。

 

K
25年も経って、そこで描かれた「問題提起」が今もそのまま当てはまってしまうというのは、彼女の先見性と天才を感じさせるだけじゃなく、日本という社会の変わらなさというか閉塞感を象徴してもいてもの悲しいね。

 

M
まあ「葛城事件」とかも象徴的だよね。今もって日本社会が理想と思う「家族」という名の地獄から抜け出せていない。まあこの作品で描かれた諸々の事柄がきちんと問題として認識されある程度表面化するようになった、という点が唯一の変化なのかもしれないね。ともあれ、岡崎京子の豊かさを知る意味でも、日本社会の変わらなさを実感するという意味でも、この「秋の日は釣瓶落とし」は多くの人に勧めたい傑作だと断言するぜ。

 

K
ただ、そういう豊かさを認識するにつれ、岡崎京子が新しい著作を書けない状態なのは残念だよね。

 

M
それは言うな。豊かな作品群に触れられるだけでもありがたいと思うべきでしょ。ただ、少しづつ彼女の作品が復刻されたり映画化されて認知度が上がるのは喜ばしいことだね。特にチワワちゃんのような作品は。そしてこの「秋の日は釣瓶落とし」も映画化されるならなおよし、ということで今回はお開きにしよう。


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