目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

鎌倉山越え極楽寺コース 約5.1Km

2024-05-19 13:36:41 | 神奈川県鎌倉市

GWの鎌倉は混雑が予想されますが、最終日はそうでもないかなという企画です。


湘南モノレール
すこやか歩こう会の鎌倉は通常のアプローチとは違い大船駅に集合して湘南モノレールで向かいます。


湘南深沢駅
天気は曇り空でしたが、モノレールからうっすらと富士山も見えていました。以前はなかったこちらの施設の通路をお借りしストレッチを行います。


深沢交差点
深沢といってもそれほど深い沢ではありません。世田谷は呑川が作った沢ですが、深沢という感じはしません。本当に深い沢だったら人が住まず地名もないということかな。人の生活に支障がない程度に深い沢ということでしょうか?


アヤメ?


ウツギ


ハルジオン

深沢から南へ向かって歩道があって車の通行がそこそこある道を歩いて行きます。周辺は田んぼや畑、奥に鎌倉を囲む山が迫っており鶯の声はひっきりなしに聞こえてきます。このコースを初めて訪れた時、鶯の声に対し当会の会員が私に「この鳥何?」と聞くので「すずめ」と言うとほかの会員さんが爆笑していました。爆笑のおかげで質問した会員も雀ではないことは認識したようです。


夫婦池


鎌倉山の碑


夫婦池公園

夫婦池公園でトイレ休憩にします。公園内の階段を上ると鎌倉山。鎌倉山は山ではなく字名です。Wikipediaから引用します。
鎌倉山(かまくらやま)は、神奈川県鎌倉市深沢地域にある大字。現行行政地名は鎌倉山一丁目から鎌倉山四丁目。住居表示実施済み区域。

地理
鎌倉市西部に位置する。北は笛田、西は手広・腰越・津、南は七里ヶ浜・稲村ヶ崎、東は極楽寺と接する。山という地名がつけられているが、標高100m程度の丘陵である。ほぼ全域が山林となっているが、道路沿いを中心に住宅が点在している。鎌倉山内の主要な道路には多数の桜(ソメイヨシノ)が植えられている。桜の開花シーズンともなると、桜を見に来るハイキング客でにぎわうようになる。
また鎌倉山神社がある山頂付近からは、七里ヶ浜の海、江の島、富士山、逗子マリーナや三浦アルプスなどを見渡すこともできる。このあたりからは、極楽寺方面と稲村ガ崎へ抜ける山道も存在し、以前は鎌倉から手広方面へ抜ける近道としても重用されていたが、昭和30年代頃に周辺の交通路が整備された事によって使われなくなり、現在は廃れている(通行は可能)。
鎌倉山には国道・県道は通っておらず、市道大船西鎌倉線(旧京浜急行自動車専用道)と、神奈川県道32号藤沢鎌倉線常磐口交差点より笛田を経由して市道大船・西鎌倉線へ合流する約3kmほどの市道(さくら道)が主要な道路となっている。市道大船・西鎌倉線とさくら道との交点北緯35度19分23.8秒 東経139度30分48.2秒には「鎌倉山ロータリー」と呼ばれるロータリー交差点が設置されている。


鎌倉山の竹林


うっすらと富士山


民家に掘られた謎のトンネル


鎌倉山神社

鎌倉山神社まで登りで、竹林が多くみられ一部は手入れが十分でないものも見られます。地震の時は竹林に行けと言われるくらい根を張っていて、斜面を維持するのに竹林が向いているのかな。


扇湖山荘?


山道


山道からの景色

山道を月影地蔵まで歩いて行きます。月影地蔵で会員に話した元ネタを
https://www2s.biglobe.ne.jp/~matu-emk/yomichi.html
から引用しておきます。
夜の山道を帰った二人=田中絹代と服部之総

 鎌倉山に通じる山道はいくつかあるが、江ノ電の極楽寺の駅を下車して桜橋を渡り、月影の地蔵の横から墓地を抜けて、一人やっと通れる程の小径もその一つ。かってこの獣道は、極楽寺から鎌倉山、笛田を経て、手広、藤沢に行くには最も近道であった。

 土地の者だけが利用していた山道である。鎌倉山の一部の住所は極楽寺であるところからも、その隣接していることが判る。車が普及したことと七里ガ浜の分譲地の奥から、鎌倉山に通じる道路が出来ているので、この昔からの山道の利用価値がなくなってしまった。

 日中でももの淋しい山道であるが、何年も前に、月影地蔵から鎌倉山に行こうとしたが、道の両脇から繁茂している草木に阻まれて、やむなく引き返してきた。去年、反対に鎌倉山の方から下山する方法で、月影地蔵まで歩いたが、その間一人としてハイカ-に出会わなかった。

 鎌倉山からは江ノ島を中心に、伊豆半島、箱根、富士の景色ばかり見慣れているので、東南の由比ガ浜、逗子方面の遠景が如何にも新鮮に眼に映り、これまで見落としていた鎌倉山の素晴らしい展望の一角を発見した思いだった。

だが、距離にして1キロ余りであるが、夜間となるとどんなに不気味な山道に変貌するか想像もつかない。

 終戦直後のことである。鎌倉山に住んでいた歴史学者の服部之総が、ある夜8時頃、極楽寺で下車して山道に向かっていくと、田圃のあぜに和装の若い女のひとが、一人月光を浴びて立っていた。一見して、美人と見てとれただけに不気味さを感じた。黙ってやりすごした背後から、声を掛けられた。

「山へお帰りでございますか?」「そうです」「恐れ入りますが、おともさせて下さい」

 おんなのひとは、服部之総の返事の仕方に一種の安心感を直感したのであろう。又彼女の問いかけかたやそれに続く動作応答の中に山の住民を確認して、さあどうぞと言って連れ立った。

 道中の会話から、その女性が聡明であることが判ったが、そのひとの見当がつかなかった。見当がつかないとみて女性は「田中でございます」と名乗り出たのであるが、「ああそうですか」と聞いて礼儀を欠かさないために「ぼくはテニスコ-トのすぐ上の、、、、」と言ったあたりで、やっと気がついて「ああ、松竹の田中さんでしたか」と言った。

 交通不便なあの時代だからこそ、こうした光景が繰り広げられたのである。我家があれば、その途中どんなに暗い道でも恐怖はないものである。だがスクリ-ンの華やかな映画女優が、運良く同じ鎌倉山に住んでいた歴史学者の服部之総と言う道連れがあったからいいようなもの、もしなかったら一人トボトボ夜の山道を辿ったのであろうか。

 田中絹代は、女優にしては珍しく本名である。田中絹代の長兄が、徴兵検査の当日時間に遅れたため、そのまま失踪してしまった。そして二度と家族の前に姿を見せることはなかった。

 田中絹代は、もし長兄がこの世に生きていたなら、本名で映画に出演していれば、どこかの映画館の片隅で自分を見ていてくれるであろうと思ったと言う。だが、鎌倉山に造った通称「田中御殿」で母親が死去した時も長兄は終に姿をみせることはなかった。

 服部之総は東大在学中に志賀義雄、大宅壮一らと新人会で活躍した。マルクス主義に傾倒し、プロレタリア科学研究所所員になり、コム アカデミ-事件で検挙された後、戦時中は花王石鹸の嘱託になり、社史などの編纂に携った。中でも、花王石鹸の創業者、「長瀬富郎伝」は満を持して執筆した。

 この間に歴史随筆「黒船前後」を上梓し、その関心事が多岐に亙っていることを示す若き日の代表作である。終戦を期に退社し学界に復帰し、鎌倉アカデミ-の教授や学監になり、廃校後は合併した法政大学の教壇に立ったが、独特の風格と組織力、鋭い問題意識を持ち、後進の育成指導にあたり、近代史の研究に果たした役割は大きい。

 戦前、戦中弾圧を受けたマルクス社会主義者も戦後は、自由に自己の主張を発表し得る時期が到来した。夜の山道を偶々田中絹代と同行したのは、服部之総の精神的、物質的に安定していたころの椿事である。しかしその後胃潰瘍になり、ノイロ-ゼ現象に悩み、一時は箱根山中で苦痛と苦悩に苛まれたのも、酒好きがもとで自律神経症から来るものであったとされる。極度の神経衰弱に度々襲われ、死を早めた。ジャ-ナリステックなセンスに富んだ学者であるが、その余りにも早すぎた死は学界のみならず各方面から哀惜された。享年55歳。

古き良き時代かな。


月影地蔵


極楽寺駅と江ノ電


江ノ電


星の井

月影地蔵まで下りてきて稲村ケ崎小学校の前を通り江ノ電の極楽寺駅へ。極楽寺坂切通を通過して星の井へ。


力餅家


御霊神社


江ノ電の線路

ゴールは長谷寺なのですが混んでいてストレッチができません。和菓子を買いたいという会員もいるので御霊神社にお参りした後境内をお借りしてストレッチをして解散。力餅へ行くグループ、長谷寺へ行くグループ。

私は反省会グループ。長谷駅に直行し鎌倉駅で乗り換え横浜駅へ。ジョイナスのライオンでたっぷり反省会をしてきました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。

すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。

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【下見】お鷹狩りロングコース担当・事務局下見

2024-05-10 14:56:37 | 東京都千代田区、新宿区、渋谷区、港区、目黒区
今年も11月3日に実施予定の第21回めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォークの下見をしてきました。今回は目黒区役所の担当と目黒ウォーキング協会事務局、計4名での下見となりました。


第一生命ビル(旧GHQ)

日比谷公園有楽門

キハナショウブと心字池

山野草展
イベント当日集合場所となる日比谷公園健康広場に集合です。


テニスコート脇のバラ

霞門交差点

大岡越前邸跡

弁護士会館
健康広場でストレッチをして、きれいに咲いたバラの花に見送られながらスタートです。霞門交差点の時計塔がある側は元海軍省で合同庁舎内に石碑があるようですがそちらにはゆきません。現在弁護士会館になっている大岡越前邸跡のサインを見ながら北西へ進みます。大岡越前と将軍お鷹狩りは浅からぬ縁がありそんな説明が出来るかな。明治期に廃止された南町奉行所は現在の有楽町マリオン付近、北町奉行所は東京駅八重洲北口付近にあったそうです。


裁判所合同庁舎
東京地方裁判所と東京高等裁判所の建物です。朝ドラ虎に翼に乗っかり今回は裁判所の前を通るルートとしました。11月には別のドラマになっていますけど。


外務省の陸奥宗光像

国会前庭のスイレン

三権分立の時計塔
外務省上交差点まで北西に進み、国会前庭南地区の池をチラ見。現在憲政会館建て直し中のため日本水準点はルートに組み込めませんが、三権分立の時計塔はよく見えているのでそんな話も出来そうです。


国会議事堂

参議院

参議院議長公邸

衆議院議長公邸
国会議事堂の正面から参議院側を通り両議院公邸前を通過。


赤坂東急
赤坂東急の脇から歩道橋を使おうと思ったら工事中、解体工事が行われており歩道橋が使えず。少し遠回りをして横断歩道へ。実際歩いてみるとこんなことが分かるので下見は欠かせません。


東北新社

とらや


高橋是清翁記念公園
高橋是清翁記念公園の沿革
 この公園は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年~1936年)の邸宅があったところです。
 翁は、昭和11年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和13年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会が・この地を当時の東京市に寄附し、昭和16年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50年(1975年)港区に移管されたものです、第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母家は故人の眠る多摩霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955年)に再建されました。
 現在の面積は5,320㎡で、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぽ当時のままの姿で残されています。
 園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。
  平成7年 港区




本田技研工業株式会社 本社
青山一丁目交差点まで青山通りを歩き、都営アパートと東宮御所の間の道を権田原へ向かいます。青山通りは目黒への鷹狩りの際実際に将軍が通ったルートの一つと言われているのでお鷹狩りウォークには最適。毎回では飽きるので時々採用させていただいています。



絵画館前広場

聖徳記念絵画館
絵画館前がロングコースのトイレ休憩とショートコースのスタート地点になります。かつてここは日本で一番古いアスファルト舗装が残っていたのですが、透水性タイルに改装され、ほんの一部にアスファルトが残されました。この日は自転車のイベントが行われていたので、少し先へ進み銀杏並木側で休憩しました。


忠犬ハチ公の碑

ハチ公の祠
明治神宮外苑いちょう並木を通り青山通りを横断してさらに南下、青山霊園の中にある郵便通りを歩き南へ抜けます。東三通りに東京大学農学部上野英三郎先生のお墓がありその脇にこれらの碑と祠があります。墓マイラーもウォーキングの楽しみの一つなので次回実踏では少し横道にそれてこちらに寄ってみることにします。


根津美術館
郵便通りが突き当たる車道を西に向かい、根津美術館の前を通過。この通り名前がないようですが、根津美術館通りとでも名付けましょうか。根津美術館のアクセスマップを見ると「美術館通り」となっており、他に「青山美術館通り」との表記も見られます。


常陸宮邸

國學院大學
六本木通りを横断した先で美術館通りと別れ常陸宮邸に沿って西へ向かいます。國學院大學はイベント当日もお願いしてトイレ休憩にお借りする予定です。


入口の目印

氷川の杜公園の土俵
國學院大學を出発して氷川の杜公園への入口が分かりにくいのでこのプレートが目印になるでしょう。公園を通過して明治通りに出ます。少し南下し東三丁目の交差点から比丘橋で渋谷川を渡り、四反町ガードでJR線をくぐり、五差路へ向かう道を南下し五差路を通過し恵比寿公園の脇を通り駒沢通りを横断します。
当初新茶屋坂通りまで坂を上るルートを描いていたのですが昨年このあたりの登りでばてたという話もあり、駒沢通りを西へ向かうルートへ変更しました。目黒学院高等学校の前を通り、東京地方裁判所中目黒庁舎(ビジネス・コート)裏の歩道を抜け中目黒公園脇から目黒川の緑道へ。目黒区民センターを抜けて田道広場公園で本日の下見はゴールしました。

地図を引き直してみて12.2km、距離は長くなりましたが最後の坂が無くなって昨年よりは楽?かな??


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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すこやか歩こう会活動スケジュール
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初投稿

2024-05-08 18:08:09 | ウォーキング
5/6(GW最終日)
今月からウォーキングは10時スタート。
大船駅の湘南モノレール改札口に集合。江ノ島に向かい4駅目の湘南深沢にて下車。昨日までのピーカンとは異なり降らず照らずだがウォーキング日和と言える。
幹線道路を外れたジャリ道でウォーミングアップのストレッチ。8割がた終わったところで車が来た為、これで由として総勢15名で歩き始めた。
春は野草が沢山見られる。道すがらスミレ、オオイヌノフグリ、ナガミヒナゲシ…
いちご畑があったり、休日に関係なく農作業をする方に感慨を覚えたり…歩く歩く。
三島神社、夫婦池〜鎌倉山。この辺りになると結構な山道の階段を歩いても空気が
美味しく感じられて気持ち良く歩けた。
鎌倉山の山頂まで約1時間。
そこからの下り、神社のあたりで富士山🗻が綺麗に見えて嬉しかった。
しかしながら此処は鎌倉市鎌倉山という住所だろうか…
家の門から住まいまで距離があるのも驚くが、急な坂道や階段を介さないと生活圏に臨めない…というのは些か辛いと思われる。
そんなことを考えながら山道を下る。
藪かきとまではいかないが一列になって草木の生い茂る細い道を歩いた。
稲村ヶ崎小学校を左に見ながら極楽寺へ。江ノ電が走るトンネル、極楽寺の切り通し、御霊神社へと歩を進め長谷寺の手前でクールダウン。
長谷寺詣をする方、力餅家の夫婦饅頭をお土産にする方、遅いお昼を食べに行く方たち…とそれぞれに解散となった。
A.K記
 
 
 
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すこやか推奨駒場コース 約5.4km

2024-05-07 15:53:41 | ウォーキング
良く晴れてウォーキング日和、定番コースですがカラフルな花々が迎えてくれます。


ホタルカズラ 
集合場所の井の頭線駒場東大前駅から駒場野公園に移動してストレッチ。


ヤエザクラ

ネモフィラ

〆切地蔵 
スタートは南へ向かい淡島通りへ。目黒区と世田谷区の区境で江戸時代は上目黒村と池尻村の村境でして。隣村から悪い病が入らないよう上目黒村側に建てられた〆切地蔵。池尻側にも目立たない〆切地蔵があります。 


八重のヤマブキ

御用屋敷
御用屋敷跡 大橋2-20
 江戸時代この周辺は18万平方メートルの御用屋敷の敷地でした。このあたりに建っていたと推定される御用屋敷の建物は、徳川将軍がこの近くの駒場野へ鷹狩りに来た時の休憩所となり、平素は狩場の管理や準備にあたる鳥見役人がつめていました。
 御用屋敷を含むこの地域はもともと、上目黒村の加藤家が開いた土地でした。寛永3年1626年に御用屋敷に当たる土地が、加藤家より伊予宇和島藩伊達家家へ献上され、同家の下屋敷となりました。そして幕府によって江戸周辺の鷹狩りの場が整えられるに従い、享保3年1718年に伊達家により下屋敷も含めて幕府へ差し出されて、御用屋敷となりました。御用屋敷には将軍家の為の「御薬園」も設置され薬用の植物が栽培されていました。
  平成22年12月
   目黒区教育委員会


栃木県東京学生寮

警視庁大橋庁舎 
淡島通りを東へ、大橋通りの丁字路を南へ向かいます。栃木県の寮ということで大谷石が使われています。大谷石は最近石材というより装飾に使われることが多いですね。 


駒場東邦中学校・高等学校

騎兵山から池尻方面

タンポポ

馬神 
大橋庁舎の先を西へ向かうと台地の縁で「騎兵山」と呼ばれています。明治時代第一騎兵連隊の練兵場が始めに置かれた場所で、日清戦争や日露戦争で犠牲になった馬たちを祀っています。 


騎兵山のソメイヨシノ

騎兵山のハナミズキ

もみじの花 
馬神碑のところに階段があるので台地の下へ降りてゆきます。 


目黒川緑道のつつじ

シャクナゲ

シバザクラ

ナノハナ 
カラフルな花々に彩られた目黒川の緑道を大橋方面に向かいます。 


目黒富士登山口

登山道

山頂 
コースは玉川通りに出て東へ向かいます。上目黒氷川神社には明治時代から浅間神社がまつられ、目黒富士登山道も造られました。 


上目黒氷川神社

神楽殿

花手水

浅間神社 
氷川神社の木陰でちょっと休憩。 


駒場バラ園 
現在営業中では日本最古のバラ園がある駒場はバラの街です。 


東大構内一二郎池

ヒエンソウ 
池は湧水が流れ込む自然なものです。池の周辺は日当たりがいいのか一足早くヒエンソウが咲いていました。 


東大構内銀杏並木

駒場博物館

立て看板

桜が取り囲む野球場 
東大構内散策は気持ちがいい! 


駒場通りのハナミズキ

前田邸和館

日本近代文学館

前田邸洋館 
日本近代文学館の芥川龍之介展は蔵書から女性に送ったと思われる押し花が見つかったとニュースでやっていましたね。6月8日まで行われています。旧前田邸は現在目黒区が管理する駒場公園、小学生の時徒歩遠足で何度か訪れました。 
駒場野公園でストレッチをして解散となりました。 


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。 まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。 sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。 
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古代の歴史、武蔵国府・国分寺コース 約6.9km

2024-05-03 14:52:37 | 東京都府中市、国分寺市
このコースを歩くのは二回目になり、前回は2018年3月でした。武蔵国府とは府中。府中と目黒区は深いつながりがあることを会員に知ってもらうため、このコースに再登場してもらいました。すこやか歩こう会の拠点となる目黒区北部は江戸時代江戸ではありません。武蔵の国荏原郡上目黒村であり、府中は江戸時代の県庁所在地のようなものです。明治時代、下目黒に競馬場が作られ第一回日本ダービーは目黒競馬場で行われました。手狭になり拡張もできなかったので競馬場は府中へ移転となり第三回日本ダービー以降、東京競馬場で開催されるようになりました。千年以上前に律令国家となった歴史ロマンを感じるウォーキングコースとなっています。


馬場東公園

カイドウ
はじめの目的地大國魂神社は府中駅の南にありますが、ストレッチ場所を求め北へ向かいこちらの公園をお借りしてストレッチをします。


さくら通り



大國魂神社欅並木
欅並木は大國魂神社の表参道になります。地図を見て気づいたのですが表参道は北へ向かって伸びています。大國魂神社の拝殿も北向きです。明治神宮など南向きの神社が多い中、北を向いている理由があるようで、奥州征伐(前九年の役)が関係しています。大國魂神社のサイトから引用します。
当社は、永承6年(1051年)に南向きであった社殿を源頼義が北向きに改めました。これは、朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治めるという意味がありました。
通常、神社は南か東を向いています。古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていました。神様も同じように南を向くのが多いようです。この他、御祭神に関係する方角を向いていたり、太陽の出る方角等各社の由緒によって向きを決めた神社もあります。






大國魂神社
御由緒を神社のサイトから引用します。
当社の御祭神は、大國魂大神[おおくにたまのおおかみ]で武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。この大神は素盞鳴尊[すさのおのみこと]の御子神で昔この国土を開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えこの国土を経営された。
当社の起源は、第12代景行天皇41年(西暦111年)5月5日大神の託宣に依って造られたものである。出雲臣天穂日命[いづものおみあめのほひのみこと]の後裔が初めて武蔵国造[むさしのくにのみやつこ]に任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれる。
その後、孝徳天皇(596-654)の御代に至り、大化の改新(645)ののち、武蔵の国府をこの処に置くようになり、当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられた。
又、国司が国内神社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、これが即ち武蔵総社の起源である。
後に本殿の両側に国内著名の神、六所[ろくしょ](小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して六所宮とも称せられるようになった。
寿永元年(1182)に至り、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、正室政子の安産の祈願が行われた。文治2年(1186)頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営し、また貞永元年(1232)2月に将軍頼経の代にも武蔵守資頼を奉行として社殿が修造せられた。
又、天正18年(1590)8月、徳川家康が江戸へ入城してからは武蔵国の総社であるために殊に崇敬の誠をつくし、社領五百石を寄進され、社殿及びその他の造営に心力をつくされた。
正保3年(1646)10月、類焼により社殿は焼失したが、寛文7年(1667)将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。形式は三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りであり、慶応年間に檜皮葺(ひわだぶき)が銅葺に改められた。本殿は都文化財に指定されている。
明治元年(1868)准勅祭社に列せられ、同7年(1874)県社に列し、同18年官幣小社に列せられた。
当社はもともと大國魂神社と称したが、中古以降武蔵国の総社となり、又国内著名の神六社を配祀したので「武蔵総社六所宮」の社号を用い、 明治4年(1871)にもとの社号に復し「大國魂神社」と称するようになった。
当社は神威殊に顕著であるので、古来より崇敬者は武蔵の国はもちろん、関東一円に亘っている。
5月5日には例大祭が行われるが、この祭が有名な国府祭で、当夜八基の神輿が古式の行列を整え、消燈して闇夜の中御旅所へ神幸するので、俗に「くらやみ祭」といわれている。昭和36年(1961)より神輿の渡御は夕刻に改められた。



武蔵国府跡

高札場
国府は現在の県庁でしょうか。大國魂神社と比べるとちょっと目立たない感じです。高札場は甲州街道と府中街道の交差点に設けられています。こちらの高札場は復元では現存、貴重なものです。


シャクナゲ

東芝のエレベーター塔

府中刑務所

ビバーナム・ティヌス
高札場から府中街道を北上します。シャクナゲとクルメツツジの区別がつかなくなっているのですが今回調べてもよくわからず、シャクナゲとしました。






武蔵国分尼寺跡
国分寺市のサイトから引用します。
 西元町四丁目のJR武蔵野線西側に武蔵国分尼寺跡が広がっており、国指定史跡武蔵国分寺跡に一括して指定されています。史跡指定地は、公有地化と整備事業を終え、国分寺市最初の市立歴史公園として平成15年4月に開園しました。
 確認調査の成果に基づき、尼寺伽藍の中枢部を構成する中門・金堂・尼坊など主要建物や区画施設である掘立柱塀を、埋没保存されているその位置で建物平面などを復元的に表示しています。尼坊は柱位置が判明しましたので、新たに石を配置してあります。
 このほか、中門と金堂の間で発見された幢竿遺構(儀式などの際、周囲を荘厳するための旗などを掲げる柱跡)を表示しています。
 また、金堂では、版築という大陸伝来の工法で、周囲より一段と高く築かれた基壇の土層断面標本を観察できる施設があります。
 尼坊の北側一帯の平坦部には、尼寺関連の遺構群が埋没していると考えられますが、保存したまま、広場としてご利用いただいています。
 さらに北側の崖線には、伝鎌倉街道の切通しが残り、その西側に中世の伝祥応寺跡、東側に塚跡があります。



ナノハナ





武蔵国分寺跡
国分寺市のサイトから引用します。
 奈良時代の中頃の天平13年(741年)、政治の混乱や社会不安の続く国内を仏の力で国を安定させるために、聖武天皇は諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。武蔵国分寺の伽藍は元弘3年(1333年)の分倍河原の合戦の際に焼失したと伝えられていますが、江戸時代には武蔵国分寺跡は江戸近郊の名所として知識人の注目を集め、地誌にも紹介されるようになりました。
 武蔵国分寺跡は、規模やその歴史的価値の高さから、大正11年(1922年)に国史跡に指定され、市ではその一部を市立歴史公園として整備し、保存と活用に取り組んでいます。




国分寺

ウツギ

シャクナゲ

国分寺崖線の湧水

お鷹の道・真姿の池湧水群

台地の上
国分寺崖線の崖をふうふう言いながら登ってきて、台地の上でひと休み。


都立武蔵国分寺公園のユキヤナギ

東山道のソメイヨシノ

東山道武蔵路
国分寺市のサイトから引用します。
東山道は都と各国府を結ぶ古代交通路である七道の1つで、武蔵路は武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)で、古代道路跡として学術上価値が高いものです。
 泉町二丁目の西国分寺住宅の東側にある東山道武蔵路跡は古代の道路遺構です。
 東山道武蔵路は上野国(現在の群馬県)から南下して武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)です。発掘調査の結果、幅12mの道路跡が台地上から谷部にかけて490mの長さで確認されました。そこで計画が変更され、地下遺構を保存して、現在の道路が築造されました。
 現在、その道路跡の約300メートルを歩道形式で保存しています。また、谷部へ下る切り通しの部分の遺構平面レプリカを野外展示しています。



見所が多く結構疲れるウォーキングコースではありますが、現在の大河ドラマ光る君へよりさらに時代をさかのぼる、想像を超える古代を想像しながらのウォーキングでした。




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