新年最初のウォーキングは恒例の「江戸最初山手七福神めぐり」です。天気に恵まれ25名の参加がありました。昨年も人が多いと感じたのですが、今年はそれを上回る人出でした。とくに板橋史談会主催の七福神巡りに参加された方があちらこちらで見受けられ、200人くらいの方がいるのではないかというほどでした。
写真:集合場所の大鳥神社
下目黒の大鳥神社に集合し、境内をお借りしてストレッチをしてスタートしました。
写真:蟠龍寺(弁財天)
写真:如意輪観音像
写真:石仏群
山手通りを南へ向かうと浄土宗の蟠龍寺があります。石仏は弁財天かと思って撮ったのですが、六観音の一つ如意輪観音像のようです。これらについての説明は「awesom-o!」さんのブログがわかりやすかったので、引用します。
六観音菩薩の特徴
真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろ くどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの で、地獄道-千手観音聖観音、餓鬼道-聖観音、畜生道-馬頭観音、修羅道-十一面観音、人道-准胝観音、天道-如意輪観音という組み合わせになっている。
1.聖観音・餓鬼道
餓鬼道は、飢えから火や糞までも食べさせられる大変なところです。
その世界にあった人を助ける観音は聖観音です。聖観音はすべての観音菩薩の基本で、慈悲の心であらゆる衆生の悩みと苦しみを救い楽を与える菩薩と説かれています。やがて、6,7世紀になると、十一面観音や千手観音など観音思想の展開に伴ってさまざまな観音が出現すると、それらと区別するため聖観音(正観音)と称するようになりました。したがって、日本においてもこの観音像は非常に多く、信仰も各時代を通じて広く行われています。
聖観音像の基本的な姿は頭に宝冠をいただき、体には天衣をまとい、耳飾りや胸飾り・腕輪などの美しい装具をつけて、左手に蕾の蓮華を持ち、右手の指先でそ の花びらを開かせようとする形が多いです。蕾の蓮華は容易に悟ることができない人々の心を、右手の先指はそれを開かせようとする仏心を意味しています。
2.千手観音・地獄道
地獄道は、最も苦しみの多い世界で、串刺し(食物を串に刺すこと)にされたりして罰を受ける人々が苦しみから雷のように大声で泣き叫ぶ世界です。
地獄に落ちた者を済度する観音は千手観音です。詳しくは千手千眼観世音菩薩などとも称する。
千手観音は1000本を持つほかに、頭の上に11面の化仏をいただき、本面に三眼を表し,掌のそれぞれに一眼ずつを表す。そして、それぞれの手には、救済の力を示すものとして、日・月・輪宝・宝珠・弓などを持ちます。
その姿を造形化する場合は、1000個の眼と1000本の手を表するのが、42臂につくることも多いです。これは中央の2臂を除く40本の手が1手につき25の衆生を救うと考えるからで、40に25を乗じて1000となる。
1000本の手は多くの人々に救済の手を差し伸べる慈悲を表し、1000個の眼は人々を教え導く知を表すとされる。
3.馬頭観音・畜生道
畜生道は、ペットなら飼ってもらえるのでまだ良いが、牛馬ならこき使われたり牛肉にされたり挽肉にされたりする動物の世界です。
他の観音が女性的で穏やかな表情で表されるのに対し、馬頭観音のみは恐ろしい忿怒と言う相に表現されます。
像容は前述のような忿怒相で体の色は赤、頭上に白馬頭を戴き、三面三目八臂(額に縦に一目を有する)とする像が多い。一面二臂、一面四臂、三面二臂、三面六臂、四面八臂の像容も存在する。立像が多いが、坐像も散見される。頭上に馬頭 を戴き、胸前で馬の口を模した「馬頭印」という印相を示す。
意味:一切の魔や煩悩をうち伏せる働きをするとされますが,これは馬が周囲の草をむさぼるように,人間の煩悩を食べ尽くして救済するということのようです。
4.十一面観音・修羅道
修羅道は、明けても暮れても人をいたみつけ、また人から傷つけられる生傷(なまきず)の絶えない世界です。
十一面観音は頭部に小さな十一の面相がつけられているので、こう呼ばれます。十一面の配置は多くの場合,正面の三面は穏やかな慈悲の菩薩相。左の三面が恐ろしい怒りを現わした瞋怒相。右の三面は一見菩薩相に似ていて、しかし上方に牙 をむき出している白牙上出相。後部の一面は大笑している大笑相。そして頭頂には正面を向いて、如来相がつけられている。
左手に水瓶を持ち、右手は前に向けて開く施無異手の二臂(二本の腕)像が多いが密教の経典には四臂や八臂の像も説かれる。
十一面の意味は人々のさまざまな苦難に対応するため、すべての方向に顔を向けます。
5.不空羂索観音・人間道
人間道は、人間が住む世界で楽と苦がある世界。今、私たちが生を受けた人間社会です。
像容は、経典には様々な姿が説かれるが、いずれも多臂(多くの腕)を持ち、シカの毛皮を身にまとうのが特徴である。この「野獣の毛皮をまとう」という点でヒンドゥー教のシヴァ信仰と関係があります。日本では一面三目八臂(額に縦に一目を有する)とする像容が通例で、立像、坐像ともにある。胸の前で二手が合掌し、二手は与願印を結ぶ。その他の四手には、羂索や蓮華などを持す。
意味:羂索は鳥や魚を捕らえる網(あみ)や綱(つな)です。つまり、観音の大慈悲のあみで煩悩の世界で苦難するすべての人々をもらさず(不空)救いとるのです。
6.如意輪観音・天界道
天界道は、楽しみが多く寿命の長い天人の世界ですが、まだ煩悩が残っているので、いつか苦しみがやってきます。
如意輪観音像は、原則として全て坐像または半跏趺座(はんかふざ・片足を他の足のももの上に組んで座ること)で、立像はまず見かけません。片膝(かたひざ)を立てて座る六臂の像が多いが、これとは全く像容の異なる二臂の半跏像もある。六臂像は6本の手のうちの2本に、如意宝珠と法輪とを持っている。
意味:如意とは如意宝珠、輪とは法輪の略で、如意宝珠、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であった輪が転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという。
写真:松雲羅漢像
やけに現代彫刻風の仏像だなぁと思って撮ったのですが、松雲羅漢は五百羅漢寺の開祖なので、仏像ではないのですね。
写真:不動尊参道
松雲羅漢像で右に曲がり五百羅漢寺の前を通ると早いのですが、新年なのでさらに南下して参道を通り目黒不動へ向かいます。
写真:蛸薬師成就院
写真:お静地蔵尊
写真:庚申塔
途中蛸薬師にお参りします。由来を成就院のホームページから引用します。
天台宗の宗祖、比叡山開山伝教大師最澄の高弟、慈覚大師円仁は栃木県壬生町生まれ、幼くして伝教大師をしたって比叡山に登り、学問修行に励まれました。
承和5年(832)唐に渡り、同14年帰国されるまでいろいろと苦学して、唐各地をまわり、たくさんの仏法を伝えて帰国されました(この時の旅行記が有名な「入唐求法巡礼行記」です。この本は先年、米国の元駐日大使ライシャワー氏が研究し、英訳出版されました。)大師は若いときから眼病を患い、40歳のとき、自ら薬師さまの小像を刻み、御入唐の時もこれを肌身につけて行かれましたが、お帰りの海路、波風が荒れましたので、その御持仏を海神に献じて、危急をのがれ、無事に筑紫の港に帰り着かれました。その後大師、諸国巡化のみぎり、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、さきに海神にささげられたお薬師さまのお像が、蛸にのって浮かんでおられました。大師は随喜の涙にむせび給い、その後東国をめぐり天安2年(858)目黒の地に来られました時、諸病平癒のためとて、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木にきざみ、護持の小像をその胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来とたたえまつられました。かくして本尊の殊勝の12大願による福徳威力、信心の人は、心願ことごとく成就し、除災長寿の利益あまねく千年のいまに至るまで、弘く信仰されてきました。
お静地蔵尊についても成就院のホームページから引用します。
この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室 お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願かない慶長16年(1611)に男子「幸松麿」が授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院の威勢をを畏れながらもその恙ないご成育を祈り3体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いが叶い、また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。
元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩のみちすがら、当山に参拝され、瞬興和尚(中興第15世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永8年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。
正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖なります。また家光公の命により四代将軍家綱公の後見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。
お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育て・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。
ここにも庚申塔がありますが、目黒区の庚申塔案内にここは載っていません。目黒不動尊周辺にはまだ数多くの庚申塔があるようです。
写真:瀧泉寺(目黒不動:恵比寿)
写真:増長天と大日如来
目黒不動の縁起を瀧泉寺のホームページから引用します。
当山の開基は、今から一千百余年前の平安時代(八〇八)にさかのぼります。十五歳の慈覚大師・円仁(後の天台座主第三祖)が、師の広智阿闍梨に伴われて、故郷の下野国(今の栃木県)から比叡山の伝教大師・最澄のもとへ向かう途中、目黒の地に立ち寄りました。
その夜の夢中、面色青黒く、右手に降魔の剣を提げ、左手に縛の縄を持ち、とても恐ろしい形相をした神人が枕の上に立ち現れて『我、この地に迹を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思うなり。来って我を渇仰せん者には、諸々の願ひを成就させん』と告げ、夢覚めた後その尊容を黙想し自ら、像を彫刻して安置したのに創まります。(ご尊像は秘仏として十二年に一度、酉年にご開帳されます)
その後、大師は唐(今の中国)の長安にある青竜寺の不動明王を拝し、先の神人がこの明王であると分かり、帰朝して堂宇を建立します。棟札に『大聖不動明王心身安養咒願成就瀧泉長久』と認め、この「瀧泉」をもって寺号と成し、山号は清和の御代に「泰叡」の勅額を賜り、泰叡山と称しました。
関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて日本三大不動の一つに上げられます。
また、堂宇建立の敷地を定めるに当たり、大師が所持の法具「独鈷」を投じた浄地より湧出した「独鈷の瀧」の流れは、数十日間の炎天旱魃が続いても涸れることなく、不動行者の洗心浄魂の場として、今日に至るまで滔々と漲り落ちています。
江戸時代には、徳川三代将軍家光がこの地で鷹狩りををした際、その愛鷹が行方知れずになり自ら不動尊の前に額ずき祈願を籠めました。すると、忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰ってきたので家光公はその威力を尊信し、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍の復興を成し遂げました。その伽藍は『目黒御殿』と称されるほど華麗を極めました。(広重の「江戸名所図会」に詳しい)
かくして五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)のひとつとして江戸城守護、江戸城五方の方難除け、江戸より発する五街道の守護に当てられ、江戸随一の名所となりました。
明治時代になると西郷隆盛や東郷元帥等が篤い信仰を寄せられ、祈願に訪れております。
※境内裏山一帯は『目黒不動遺跡』として縄文・弥生時代の住居跡、土器等が、発見されています。さつまいもの栽培を広めた食料の恩人、青木昆陽先生は蘭学者・文化人としても日本社会に貢献し、目黒の土地を愛して、自ら『甘藷先生墓』と書きました。そのお墓が今は国の史跡となっております。
瀧泉寺のご本尊は不動明王で、本殿の裏に大日如来像があることの意味が理解できなかったのですが、不動明王は大日如来の化身なのです。明王を天部と同じように守護神だと思っていたのですが間違いでした。大日如来像は四天王(持国天 - 東、増長天 - 南、広目天 - 西、多聞天 - 北)に守られています。
写真:山手通り
中央環状線山手トンネル完成後、山手通りの整備が着々と進められています。
写真:太鼓橋
写真:雅叙園の入り口
太鼓橋についてWikipediaから引用します。
1769年(明和6年)に完成した。建設された当時としては珍しい石造りであった。長さ8間3尺(約15.3メートル)、幅2間(約3.6メートル)であり、名前の通りいわゆる「太鼓橋」の形状をしていた。
斎藤月岑が『江戸名所図会』(第三巻、1834年)に選び、歌川広重が『江戸名所百景』(1857年)にも描いた。周辺には目黒不動や行人坂、千代ヶ崎(上大崎村千代ヶ崎、現在の品川区上大崎3丁目)等の名所が多かった。
太鼓橋を造った人物には諸説あり、八百屋お七の恋人の吉三郎が出家した西運上人だったという伝説がある。修行中に江戸の民衆から寄進を集めて太鼓橋を造ったという。橋の東側にあった大円寺には吉三の伝説が書かれた標識があったほか、旧太鼓橋に使用された石材が置かれてある。ほかにも、木喰上人(木食養阿)が1700年代の始めに作り始め、江戸・八丁堀の町人が資金を出し合い、完成させたという説がある。
写真:大圓寺(大黒天)
写真:七福神
写真:五百羅漢(大火犠牲者供養の羅漢像)
写真:とろけ地蔵尊
大圓寺について天台宗東京教区のホームページから引用します。
目黒駅西口を下りると急な坂行人坂があり、坂の途中に大円寺がある。この坂は江戸市中から目黒不動尊への参詣路であった。行人坂の名は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによる。寺伝では、寛永元年(1624)出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりという。
明和9年(1772)寺より火を発し、江戸市中628町に延焼した。振袖火事、車町火事と並ぶ江戸三大火事の一つになり、行人坂火事として安永元年と年号も改められた。幕末になって薩摩藩島津氏の菩提寺として再興された。門を入った左手にある五百羅漢の石像(都有形)は、この大火の犠牲者供養のために当時につくられたものと伝える。
境内左側釈迦堂の本尊釈迦如来立像(国重文)は、鎌倉初期の清涼寺式生身の釈迦像であり、胎内に五臓六腑がおさめられている。正面本堂には、江戸城裏鬼門にあたる為徳川家康をモデルに大黒天を祭る。山手七福神の一つで、今日でも参詣者を集めている。
阿弥陀堂には弥陀三尊が祭られお七地蔵の木彫もある。
墓地に西運の墓がある。西運は江戸初期、隣の明王院(現在の雅叙園の位置)に住し、行人坂の修築などを行った。門前にその時の行人坂敷石造道供養碑がある。西運は八百屋お七の恋人吉三の出家後の名である。
また境内に江戸時代の庚申塔が3基あり、会津八一の歌碑も残されている。
行人坂を下ると目黒川にかかる橋がある。雁歯橋とも太鼓橋とも呼ばれ、今は後者が橋の名になっている。その当時使用された石材は寺の境内に置かれている。太鼓橋の往時の景観は、広重の錦絵「名所江戸百景・目黒太鼓橋より夕日の岡」に残されている。明王院、大円寺一帯は夕日の岡といわれ、紅葉・桜の名所でもあった。
写真:目黒駅前に完成した複合ビル
アトレでトイレをお借りして休憩です。
写真:自転車文化センター
写真:妙円寺(福禄寿、寿老人)
目黒通りを東へ向かうと自転車文化センターがあります。さらに東へ向かっているときに板橋史談会の団体と一緒になってしまい、日蓮宗の妙円寺は大混雑でした。
写真:瑞聖禅寺(布袋尊)
目黒通りをさらに東へ向かい、瑞聖寺です。大雄宝殿は国指定の重要文化財として登録されています。東京都文化財めぐりのページから引用します。
紫雲山瑞聖寺は、宇治万福寺を開いた隠元の弟子・木庵を開山とする、江戸で最初の黄檗宗寺院です。木庵に帰依した青木甲斐守によって寺地が準備され、寛文10年(1670)に創立し、翌年に諸堂が完成しました。創建伽藍がらんは享保11年(1726)と延享2年(1745)の2度の火災で焼失しましたが、宝暦7年(1757)に仏殿(大雄宝殿)を再建、以後文化年間(1804-18)までに伽藍が再整備されました。大雄宝殿は、雄大な規模を持つ伽藍の中心建物です。
黄檗宗は、江戸時代になって現在の中国から渡ってきたもので、月台と呼ばれるテラス状の張り出しや、開ほう(外に吊るされた木魚)、正面中央の桃の彫刻がついた腰扉など、それまでの日本の寺院建築とは異なる意匠が目を引きます。他にも、二重屋根で、正面と背面に外廊下のような吹放し部分を設けること、内部の床は四半敷瓦敷きで左右に畳床を置くこと、組物を簡略化して角柱を用いること、丸窓を多用することなども特徴といえます。
江戸に残された数少ない本格的な仏堂建築として貴重です。
写真:DOG BAR
シェラトン都ホテルのDOG BARにはお客さんはいませんでした。
写真:覚林寺(毘沙門天)
日蓮宗のお寺です。桜田通から分岐して目黒通りが始まる地点にあり、交差点名は「清正公前」となっており、加藤清正公をお祭していることから勝負祈願のお寺として信仰を集めています。
写真:明治学院
写真:高輪消防署二本榎出張所
東京都消防庁のページから引用します。
昭和8年に建てられた二本榎出張所(旧高輪消防署)が、平成22年3月26日に「東京都選定歴史的建造物」に選定されました。
第一次世界大戦後に流行した「ドイツ表現派」の建築設計で、そのレトロな外観から、地域のシンボル的な存在となっており、年間約1,200人の方々が見学に訪れています。
写真:池田山公園
品川区立池田山公園で休憩します。雪つりのある落ち着いた良い公園です。
写真:タイ王国大使館看板
写真:大使公邸
写真:大使館
写真:読めない看板
以前は大使公邸しかなく、大使館は十年くらい前に引っ越してきたように思うのですが、資料が見つかりませんでした。大使公邸は目を引く建物ですが、日本人の邸宅として建てられたもののようで、在日本タイ王国大使館のページから一部引用します。
公邸の歴史は第二次世界大戦前に遡る。和歌山県出身の実業家として名声のある濱口一族の一方の雄、十代目濱口吉右衛門(無悶)氏(1883-1945)が1931年に福沢諭吉の養子、福沢桃介氏から現在の東京都品川区上大崎3丁目14-6に2500坪の土地を購入した。そして翌年、洋風現代建築の大家の一人である和田順顕氏の設計と清水建設の建造により、いわゆる“濱口邸”の建設が開始され1934年に完成した。濱口氏は芸術・骨董品に深い造詣を持つことで知られており、優美なインテリアや上質の輸入品を配し、濱口邸は古典的な建築様式と芸術的な装飾を兼ね備えたものとなった。
目黒駅方面へ向かい、自転車文化センター裏の児童公園をお借りしてストレッチをして解散となりました。
その後有志八名は天狗で新年会。お正月ということで、刺身を肴に山形の日本酒。すぐにカラになってしまうYさんの枡には穴が開いていたのかもしれません。ほどほどに!
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
写真:集合場所の大鳥神社
下目黒の大鳥神社に集合し、境内をお借りしてストレッチをしてスタートしました。
写真:蟠龍寺(弁財天)
写真:如意輪観音像
写真:石仏群
山手通りを南へ向かうと浄土宗の蟠龍寺があります。石仏は弁財天かと思って撮ったのですが、六観音の一つ如意輪観音像のようです。これらについての説明は「awesom-o!」さんのブログがわかりやすかったので、引用します。
六観音菩薩の特徴
真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろ くどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの で、地獄道-千手観音聖観音、餓鬼道-聖観音、畜生道-馬頭観音、修羅道-十一面観音、人道-准胝観音、天道-如意輪観音という組み合わせになっている。
1.聖観音・餓鬼道
餓鬼道は、飢えから火や糞までも食べさせられる大変なところです。
その世界にあった人を助ける観音は聖観音です。聖観音はすべての観音菩薩の基本で、慈悲の心であらゆる衆生の悩みと苦しみを救い楽を与える菩薩と説かれています。やがて、6,7世紀になると、十一面観音や千手観音など観音思想の展開に伴ってさまざまな観音が出現すると、それらと区別するため聖観音(正観音)と称するようになりました。したがって、日本においてもこの観音像は非常に多く、信仰も各時代を通じて広く行われています。
聖観音像の基本的な姿は頭に宝冠をいただき、体には天衣をまとい、耳飾りや胸飾り・腕輪などの美しい装具をつけて、左手に蕾の蓮華を持ち、右手の指先でそ の花びらを開かせようとする形が多いです。蕾の蓮華は容易に悟ることができない人々の心を、右手の先指はそれを開かせようとする仏心を意味しています。
2.千手観音・地獄道
地獄道は、最も苦しみの多い世界で、串刺し(食物を串に刺すこと)にされたりして罰を受ける人々が苦しみから雷のように大声で泣き叫ぶ世界です。
地獄に落ちた者を済度する観音は千手観音です。詳しくは千手千眼観世音菩薩などとも称する。
千手観音は1000本を持つほかに、頭の上に11面の化仏をいただき、本面に三眼を表し,掌のそれぞれに一眼ずつを表す。そして、それぞれの手には、救済の力を示すものとして、日・月・輪宝・宝珠・弓などを持ちます。
その姿を造形化する場合は、1000個の眼と1000本の手を表するのが、42臂につくることも多いです。これは中央の2臂を除く40本の手が1手につき25の衆生を救うと考えるからで、40に25を乗じて1000となる。
1000本の手は多くの人々に救済の手を差し伸べる慈悲を表し、1000個の眼は人々を教え導く知を表すとされる。
3.馬頭観音・畜生道
畜生道は、ペットなら飼ってもらえるのでまだ良いが、牛馬ならこき使われたり牛肉にされたり挽肉にされたりする動物の世界です。
他の観音が女性的で穏やかな表情で表されるのに対し、馬頭観音のみは恐ろしい忿怒と言う相に表現されます。
像容は前述のような忿怒相で体の色は赤、頭上に白馬頭を戴き、三面三目八臂(額に縦に一目を有する)とする像が多い。一面二臂、一面四臂、三面二臂、三面六臂、四面八臂の像容も存在する。立像が多いが、坐像も散見される。頭上に馬頭 を戴き、胸前で馬の口を模した「馬頭印」という印相を示す。
意味:一切の魔や煩悩をうち伏せる働きをするとされますが,これは馬が周囲の草をむさぼるように,人間の煩悩を食べ尽くして救済するということのようです。
4.十一面観音・修羅道
修羅道は、明けても暮れても人をいたみつけ、また人から傷つけられる生傷(なまきず)の絶えない世界です。
十一面観音は頭部に小さな十一の面相がつけられているので、こう呼ばれます。十一面の配置は多くの場合,正面の三面は穏やかな慈悲の菩薩相。左の三面が恐ろしい怒りを現わした瞋怒相。右の三面は一見菩薩相に似ていて、しかし上方に牙 をむき出している白牙上出相。後部の一面は大笑している大笑相。そして頭頂には正面を向いて、如来相がつけられている。
左手に水瓶を持ち、右手は前に向けて開く施無異手の二臂(二本の腕)像が多いが密教の経典には四臂や八臂の像も説かれる。
十一面の意味は人々のさまざまな苦難に対応するため、すべての方向に顔を向けます。
5.不空羂索観音・人間道
人間道は、人間が住む世界で楽と苦がある世界。今、私たちが生を受けた人間社会です。
像容は、経典には様々な姿が説かれるが、いずれも多臂(多くの腕)を持ち、シカの毛皮を身にまとうのが特徴である。この「野獣の毛皮をまとう」という点でヒンドゥー教のシヴァ信仰と関係があります。日本では一面三目八臂(額に縦に一目を有する)とする像容が通例で、立像、坐像ともにある。胸の前で二手が合掌し、二手は与願印を結ぶ。その他の四手には、羂索や蓮華などを持す。
意味:羂索は鳥や魚を捕らえる網(あみ)や綱(つな)です。つまり、観音の大慈悲のあみで煩悩の世界で苦難するすべての人々をもらさず(不空)救いとるのです。
6.如意輪観音・天界道
天界道は、楽しみが多く寿命の長い天人の世界ですが、まだ煩悩が残っているので、いつか苦しみがやってきます。
如意輪観音像は、原則として全て坐像または半跏趺座(はんかふざ・片足を他の足のももの上に組んで座ること)で、立像はまず見かけません。片膝(かたひざ)を立てて座る六臂の像が多いが、これとは全く像容の異なる二臂の半跏像もある。六臂像は6本の手のうちの2本に、如意宝珠と法輪とを持っている。
意味:如意とは如意宝珠、輪とは法輪の略で、如意宝珠、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であった輪が転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという。
写真:松雲羅漢像
やけに現代彫刻風の仏像だなぁと思って撮ったのですが、松雲羅漢は五百羅漢寺の開祖なので、仏像ではないのですね。
写真:不動尊参道
松雲羅漢像で右に曲がり五百羅漢寺の前を通ると早いのですが、新年なのでさらに南下して参道を通り目黒不動へ向かいます。
写真:蛸薬師成就院
写真:お静地蔵尊
写真:庚申塔
途中蛸薬師にお参りします。由来を成就院のホームページから引用します。
天台宗の宗祖、比叡山開山伝教大師最澄の高弟、慈覚大師円仁は栃木県壬生町生まれ、幼くして伝教大師をしたって比叡山に登り、学問修行に励まれました。
承和5年(832)唐に渡り、同14年帰国されるまでいろいろと苦学して、唐各地をまわり、たくさんの仏法を伝えて帰国されました(この時の旅行記が有名な「入唐求法巡礼行記」です。この本は先年、米国の元駐日大使ライシャワー氏が研究し、英訳出版されました。)大師は若いときから眼病を患い、40歳のとき、自ら薬師さまの小像を刻み、御入唐の時もこれを肌身につけて行かれましたが、お帰りの海路、波風が荒れましたので、その御持仏を海神に献じて、危急をのがれ、無事に筑紫の港に帰り着かれました。その後大師、諸国巡化のみぎり、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、さきに海神にささげられたお薬師さまのお像が、蛸にのって浮かんでおられました。大師は随喜の涙にむせび給い、その後東国をめぐり天安2年(858)目黒の地に来られました時、諸病平癒のためとて、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木にきざみ、護持の小像をその胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来とたたえまつられました。かくして本尊の殊勝の12大願による福徳威力、信心の人は、心願ことごとく成就し、除災長寿の利益あまねく千年のいまに至るまで、弘く信仰されてきました。
お静地蔵尊についても成就院のホームページから引用します。
この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室 お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願かない慶長16年(1611)に男子「幸松麿」が授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院の威勢をを畏れながらもその恙ないご成育を祈り3体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いが叶い、また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。
元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩のみちすがら、当山に参拝され、瞬興和尚(中興第15世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永8年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。
正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖なります。また家光公の命により四代将軍家綱公の後見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。
お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育て・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。
ここにも庚申塔がありますが、目黒区の庚申塔案内にここは載っていません。目黒不動尊周辺にはまだ数多くの庚申塔があるようです。
写真:瀧泉寺(目黒不動:恵比寿)
写真:増長天と大日如来
目黒不動の縁起を瀧泉寺のホームページから引用します。
当山の開基は、今から一千百余年前の平安時代(八〇八)にさかのぼります。十五歳の慈覚大師・円仁(後の天台座主第三祖)が、師の広智阿闍梨に伴われて、故郷の下野国(今の栃木県)から比叡山の伝教大師・最澄のもとへ向かう途中、目黒の地に立ち寄りました。
その夜の夢中、面色青黒く、右手に降魔の剣を提げ、左手に縛の縄を持ち、とても恐ろしい形相をした神人が枕の上に立ち現れて『我、この地に迹を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思うなり。来って我を渇仰せん者には、諸々の願ひを成就させん』と告げ、夢覚めた後その尊容を黙想し自ら、像を彫刻して安置したのに創まります。(ご尊像は秘仏として十二年に一度、酉年にご開帳されます)
その後、大師は唐(今の中国)の長安にある青竜寺の不動明王を拝し、先の神人がこの明王であると分かり、帰朝して堂宇を建立します。棟札に『大聖不動明王心身安養咒願成就瀧泉長久』と認め、この「瀧泉」をもって寺号と成し、山号は清和の御代に「泰叡」の勅額を賜り、泰叡山と称しました。
関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて日本三大不動の一つに上げられます。
また、堂宇建立の敷地を定めるに当たり、大師が所持の法具「独鈷」を投じた浄地より湧出した「独鈷の瀧」の流れは、数十日間の炎天旱魃が続いても涸れることなく、不動行者の洗心浄魂の場として、今日に至るまで滔々と漲り落ちています。
江戸時代には、徳川三代将軍家光がこの地で鷹狩りををした際、その愛鷹が行方知れずになり自ら不動尊の前に額ずき祈願を籠めました。すると、忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰ってきたので家光公はその威力を尊信し、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍の復興を成し遂げました。その伽藍は『目黒御殿』と称されるほど華麗を極めました。(広重の「江戸名所図会」に詳しい)
かくして五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)のひとつとして江戸城守護、江戸城五方の方難除け、江戸より発する五街道の守護に当てられ、江戸随一の名所となりました。
明治時代になると西郷隆盛や東郷元帥等が篤い信仰を寄せられ、祈願に訪れております。
※境内裏山一帯は『目黒不動遺跡』として縄文・弥生時代の住居跡、土器等が、発見されています。さつまいもの栽培を広めた食料の恩人、青木昆陽先生は蘭学者・文化人としても日本社会に貢献し、目黒の土地を愛して、自ら『甘藷先生墓』と書きました。そのお墓が今は国の史跡となっております。
瀧泉寺のご本尊は不動明王で、本殿の裏に大日如来像があることの意味が理解できなかったのですが、不動明王は大日如来の化身なのです。明王を天部と同じように守護神だと思っていたのですが間違いでした。大日如来像は四天王(持国天 - 東、増長天 - 南、広目天 - 西、多聞天 - 北)に守られています。
写真:山手通り
中央環状線山手トンネル完成後、山手通りの整備が着々と進められています。
写真:太鼓橋
写真:雅叙園の入り口
太鼓橋についてWikipediaから引用します。
1769年(明和6年)に完成した。建設された当時としては珍しい石造りであった。長さ8間3尺(約15.3メートル)、幅2間(約3.6メートル)であり、名前の通りいわゆる「太鼓橋」の形状をしていた。
斎藤月岑が『江戸名所図会』(第三巻、1834年)に選び、歌川広重が『江戸名所百景』(1857年)にも描いた。周辺には目黒不動や行人坂、千代ヶ崎(上大崎村千代ヶ崎、現在の品川区上大崎3丁目)等の名所が多かった。
太鼓橋を造った人物には諸説あり、八百屋お七の恋人の吉三郎が出家した西運上人だったという伝説がある。修行中に江戸の民衆から寄進を集めて太鼓橋を造ったという。橋の東側にあった大円寺には吉三の伝説が書かれた標識があったほか、旧太鼓橋に使用された石材が置かれてある。ほかにも、木喰上人(木食養阿)が1700年代の始めに作り始め、江戸・八丁堀の町人が資金を出し合い、完成させたという説がある。
写真:大圓寺(大黒天)
写真:七福神
写真:五百羅漢(大火犠牲者供養の羅漢像)
写真:とろけ地蔵尊
大圓寺について天台宗東京教区のホームページから引用します。
目黒駅西口を下りると急な坂行人坂があり、坂の途中に大円寺がある。この坂は江戸市中から目黒不動尊への参詣路であった。行人坂の名は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによる。寺伝では、寛永元年(1624)出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりという。
明和9年(1772)寺より火を発し、江戸市中628町に延焼した。振袖火事、車町火事と並ぶ江戸三大火事の一つになり、行人坂火事として安永元年と年号も改められた。幕末になって薩摩藩島津氏の菩提寺として再興された。門を入った左手にある五百羅漢の石像(都有形)は、この大火の犠牲者供養のために当時につくられたものと伝える。
境内左側釈迦堂の本尊釈迦如来立像(国重文)は、鎌倉初期の清涼寺式生身の釈迦像であり、胎内に五臓六腑がおさめられている。正面本堂には、江戸城裏鬼門にあたる為徳川家康をモデルに大黒天を祭る。山手七福神の一つで、今日でも参詣者を集めている。
阿弥陀堂には弥陀三尊が祭られお七地蔵の木彫もある。
墓地に西運の墓がある。西運は江戸初期、隣の明王院(現在の雅叙園の位置)に住し、行人坂の修築などを行った。門前にその時の行人坂敷石造道供養碑がある。西運は八百屋お七の恋人吉三の出家後の名である。
また境内に江戸時代の庚申塔が3基あり、会津八一の歌碑も残されている。
行人坂を下ると目黒川にかかる橋がある。雁歯橋とも太鼓橋とも呼ばれ、今は後者が橋の名になっている。その当時使用された石材は寺の境内に置かれている。太鼓橋の往時の景観は、広重の錦絵「名所江戸百景・目黒太鼓橋より夕日の岡」に残されている。明王院、大円寺一帯は夕日の岡といわれ、紅葉・桜の名所でもあった。
写真:目黒駅前に完成した複合ビル
アトレでトイレをお借りして休憩です。
写真:自転車文化センター
写真:妙円寺(福禄寿、寿老人)
目黒通りを東へ向かうと自転車文化センターがあります。さらに東へ向かっているときに板橋史談会の団体と一緒になってしまい、日蓮宗の妙円寺は大混雑でした。
写真:瑞聖禅寺(布袋尊)
目黒通りをさらに東へ向かい、瑞聖寺です。大雄宝殿は国指定の重要文化財として登録されています。東京都文化財めぐりのページから引用します。
紫雲山瑞聖寺は、宇治万福寺を開いた隠元の弟子・木庵を開山とする、江戸で最初の黄檗宗寺院です。木庵に帰依した青木甲斐守によって寺地が準備され、寛文10年(1670)に創立し、翌年に諸堂が完成しました。創建伽藍がらんは享保11年(1726)と延享2年(1745)の2度の火災で焼失しましたが、宝暦7年(1757)に仏殿(大雄宝殿)を再建、以後文化年間(1804-18)までに伽藍が再整備されました。大雄宝殿は、雄大な規模を持つ伽藍の中心建物です。
黄檗宗は、江戸時代になって現在の中国から渡ってきたもので、月台と呼ばれるテラス状の張り出しや、開ほう(外に吊るされた木魚)、正面中央の桃の彫刻がついた腰扉など、それまでの日本の寺院建築とは異なる意匠が目を引きます。他にも、二重屋根で、正面と背面に外廊下のような吹放し部分を設けること、内部の床は四半敷瓦敷きで左右に畳床を置くこと、組物を簡略化して角柱を用いること、丸窓を多用することなども特徴といえます。
江戸に残された数少ない本格的な仏堂建築として貴重です。
写真:DOG BAR
シェラトン都ホテルのDOG BARにはお客さんはいませんでした。
写真:覚林寺(毘沙門天)
日蓮宗のお寺です。桜田通から分岐して目黒通りが始まる地点にあり、交差点名は「清正公前」となっており、加藤清正公をお祭していることから勝負祈願のお寺として信仰を集めています。
写真:明治学院
写真:高輪消防署二本榎出張所
東京都消防庁のページから引用します。
昭和8年に建てられた二本榎出張所(旧高輪消防署)が、平成22年3月26日に「東京都選定歴史的建造物」に選定されました。
第一次世界大戦後に流行した「ドイツ表現派」の建築設計で、そのレトロな外観から、地域のシンボル的な存在となっており、年間約1,200人の方々が見学に訪れています。
写真:池田山公園
品川区立池田山公園で休憩します。雪つりのある落ち着いた良い公園です。
写真:タイ王国大使館看板
写真:大使公邸
写真:大使館
写真:読めない看板
以前は大使公邸しかなく、大使館は十年くらい前に引っ越してきたように思うのですが、資料が見つかりませんでした。大使公邸は目を引く建物ですが、日本人の邸宅として建てられたもののようで、在日本タイ王国大使館のページから一部引用します。
公邸の歴史は第二次世界大戦前に遡る。和歌山県出身の実業家として名声のある濱口一族の一方の雄、十代目濱口吉右衛門(無悶)氏(1883-1945)が1931年に福沢諭吉の養子、福沢桃介氏から現在の東京都品川区上大崎3丁目14-6に2500坪の土地を購入した。そして翌年、洋風現代建築の大家の一人である和田順顕氏の設計と清水建設の建造により、いわゆる“濱口邸”の建設が開始され1934年に完成した。濱口氏は芸術・骨董品に深い造詣を持つことで知られており、優美なインテリアや上質の輸入品を配し、濱口邸は古典的な建築様式と芸術的な装飾を兼ね備えたものとなった。
目黒駅方面へ向かい、自転車文化センター裏の児童公園をお借りしてストレッチをして解散となりました。
その後有志八名は天狗で新年会。お正月ということで、刺身を肴に山形の日本酒。すぐにカラになってしまうYさんの枡には穴が開いていたのかもしれません。ほどほどに!
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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