負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

個人の自由を抹殺する政治は自由主義社会でも行われている

2004年09月22日 | 詞花日暦
《われら》は神に、
《われ》は悪魔に由来するものだ
――ザミャーチン(作家)

 いつの間にか、ザミャーチンの名を語る人はすくなくなった。一九○五年、二十代初めに戦艦ポチョムキンの反乱に直面、革命運動に入った彼は、作家として活動しながら、官僚化する共産主義体制に反発して投獄される。一九二四年に米国で初めて英訳が刊行された『われら』は、ソ連の単一国家を反ユートピアとして描いた代表作。
 ここで語られるテーマは、国家(われら)のために個人(われ)の自由と想像力を徹底的に抹殺すること。自由と想像力は破滅をもたらす悪魔の仕業だから、神が考える正しい世界を創るには、両者をなくしてしまえばいいという論理である。
 単純な対立項目から構成された作品だけに、またソ連崩壊のせいもあって、人々は忘れがちになったのだろう。ただ、作品の根底にある「人は本質的に悪魔であり、人がたどり着く究極点は残酷さのみ」という考えを抽出すると、一概にデストピア小説として片付けられない。作者のアイロニーはアメリカに代表される自由主義社会でさえ通用する。巧妙に「われ」の自由と想像力が制約されているからである。