後悔を先に立たせて後から見れば、
杖をついたり、ころんだり
――五代目古今亭志ん生(落語家)
地方に育ったせいで、古今亭志ん生の高座に直に接する機会がなかった。ただ子供の頃に流れたラジオ放送やのちの録音でほとんどの口演を飽きるほど聴いてきた。そうなると、今度は平凡な駄洒落の反復や首をかしげる事実誤認が耳ざわりになる。
生前、並び称された三遊亭円生とちがい、志ん生が落語に雑駁に取り組んだせいではないか。というより、円生の緻密さと異なる奔放な即興性こそ、彼の落語の真髄ではなかったか。「噺は入っていく順があるが、自分は(高座に)上がったとこ勝負でしゃべっていく」と語っている。これこそ志ん生の大らかさの魅力である。
そういえば、聴く側の心が和むときがある。たとえ偏屈な登場人物でも、その口調に偏屈さは微塵もない。心底、素直な響きで、志ん生の人柄がそのまま溢れ出る。小細工なし、後悔なし、ありのままの自分に従った。『四谷怪談』の下駄の音「カラーン、コローン」も、他の噺家とまったくちがっているのをご存知だろうか。
杖をついたり、ころんだり
――五代目古今亭志ん生(落語家)
地方に育ったせいで、古今亭志ん生の高座に直に接する機会がなかった。ただ子供の頃に流れたラジオ放送やのちの録音でほとんどの口演を飽きるほど聴いてきた。そうなると、今度は平凡な駄洒落の反復や首をかしげる事実誤認が耳ざわりになる。
生前、並び称された三遊亭円生とちがい、志ん生が落語に雑駁に取り組んだせいではないか。というより、円生の緻密さと異なる奔放な即興性こそ、彼の落語の真髄ではなかったか。「噺は入っていく順があるが、自分は(高座に)上がったとこ勝負でしゃべっていく」と語っている。これこそ志ん生の大らかさの魅力である。
そういえば、聴く側の心が和むときがある。たとえ偏屈な登場人物でも、その口調に偏屈さは微塵もない。心底、素直な響きで、志ん生の人柄がそのまま溢れ出る。小細工なし、後悔なし、ありのままの自分に従った。『四谷怪談』の下駄の音「カラーン、コローン」も、他の噺家とまったくちがっているのをご存知だろうか。