負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

大逆事件の「祟り」が事件後に語られることがあった

2004年09月03日 | 詞花日暦
われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶尊敬する
――石川啄木(歌人・詩人)

 地方都市に旅するときは必ず書店に寄り、地元で刊行されたその土地に関する本を眺める。大都市中心の書籍流通に乗らない、貴重なものに出会えることがおおい。小松芳郎著『松本平からみた大逆事件』もささいな一例。
 引用文のように、啄木が尊敬すると書いたのは、大逆事件の実質的な推進者の一人、宮本太吉。長野県松本の明科で官営製材所の技師として働き、暗殺計画用の爆弾を試作した。爆裂弾の実験は明治四十二年十一月三日、暗殺の対象である明治天皇誕生日の天長節である。松本の記念花火大会で爆発音を消す意図があった。
 明科役場には、製材所の操業が「明治四十二年~大正二年」とある。数年の短い期間がふしぎだった。原因は、地元の新聞記事に残る大正二年五月二十四日の製材所火災。宮下が検挙された三年後のわずか一日ちがいの日付だった。小松は地元の人を訪ね、その祖父が聞き書きしたノートを知る。当時、大逆事件の「祟り」だといわれたという。人々の噂には、啄木と同じように、事件に対する大衆の思いがあるのを知った気がする。