負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

姥捨山も田毎の月も菅江真澄の江戸時代と同じである

2004年09月18日 | 詞花日暦
真澄は旅にでた目的を日本中の古い神社を
拝んで巡りたいと記している
――内田武志(菅江真澄研究家)

 天明三年(一七八三)八月、現在でいえば九月の半ば、三十歳になった菅江真澄は親しい仲間と姨捨山の月見を行っている。春から故郷の三河(岡崎)を出た旅が、秋になって信州を北上し、長野・更埴にいたった。
 途上では、子供を残して行倒れた若い女の死骸が横たわる。そのかたわらを、月見を目指す大勢の風流人が声高に語り合いながら通り過ぎる。俳諧師たちも諸国から集まってきていた。くしくも天明三年は、与謝蕪村が死んだ年でもある。すでに姥捨山も田毎の月も人口に膾炙していた。後者はあいにく秋だけに、稲穂が実って中秋の名月は田毎に映らない。
 筆者も同じ場所から月の出を見た。真澄の書中に「山は千曲川の岸を麓にしてそびえ、けわしく高い岩がある。東に見えるのは有明山の峰、冠着山、西には一重山と名づけられている山があり」と書かれたまま。山国といっても、高みから見る空は広い。月の出は「宇宙洪々」ということばを思い出させるほど。真澄の旅の目的だった神社と姨捨の月は、どこかつながるものがある。神社は旅の名目だけではなかった。