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半藤一利+保阪正康『昭和の名将と愚将』文春新書

2018年03月21日 | よみものみもの
歴史が得意でない。
中でも現代史がちっとも頭に入っていない。
人間は、歴史に学んで人類全体として進歩して行ったら良かろうと考えているけれど、
私自身はちっとも歴史を学んでいない。

ある文化が発達して、優れたトップが輩出するためには、
それが大衆に広まる必要があると考えている。
裾野が広いほうが頂上が高かろう、ということだ。
してみると、私のような末端が勉強しないから、人類は愚行を繰り返している、
ってことになる。ヤレヤレ。



母の居室に有った本を手に取る。
私と違って、母は父親というものを敬愛しているから、こんな本を読むのはつらかろう。
目次を見ると、前半が名将篇、後半が愚将篇と分かれており、
後半の第九章に「牟田口廉也と瀬島龍三」が有る。

母の父である河邊正三(かわべまさかず)は、インパール作戦で牟田口の上官であった。
瀬島とは戦後も親しく付き合ったと聞いている。

さて、読んでみますか。
一部、引用しましょ。

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半藤 ノモンハンばかりではなく、無謀で悲劇的で無意味な戦さといえば、
三個師団七万五千人あまりの日本軍を、飢餓と弾薬不足によって
ジャングルの泥濘のうちに白骨化させたインパール作戦を忘れるわけにはいきません。
インパールはビルマ(現在のミャンマー)の国境線のむこう、山を越えたところにある
インドの大きな都市ですね。
この作戦は昭和19年3月に開始されますが、すでにそのころ太平洋方面では敗退につぐ敗退でしたから、
常識的には「いまごろインドに侵攻してどうする」という話なのです。
この作戦を推進したのが第15軍司令官牟田口廉也中将でした。

保阪 牟田口は上長にあたる、ビルマ方面軍司令官の河辺正三中将に
「閣下と本職(須山注:自分のこと)はこの戦争の根因となった支那事変を起こした責任があります。
この作戦を成功させて、国家に対して申し訳がたつようにせねばなりません」と言ったといいますね。

半藤 ええ、その話は当時新聞記者にもしています。
この作戦には不人気になっていった東條英機内閣への全国民の信頼を再燃させるために、という
政治的な意図があった。そして河辺と牟田口は盧溝橋事件のときの旅団長と連隊長でした。
ビルマでこの愚将コンビがふたたび出会って最悪の大作戦を推進したのでした。
 戦後に、この牟田口廉也には、私は何べんも会いました。彼は小岩に住んでいましたが、
訪ねていってもどういうわけか、うちへ入れてくれないんですね。
「君、外で話そう」とか言ってスタスタ歩いていってしまう。
江戸川の堤までいって土手に座って話しました。

保阪 家族に聞かせたくなかったのでしょうか。

半藤 たぶんそうなのでしょうねえ。(略)話していくとこの人はかならず最後には激昂するんです。
戦後しばらくしてイギリスからインパール作戦に関する本が出たのですが、その本に
日本軍の作戦構想をほめている部分があったのです。牟田口はその論旨を力説しまして、
なぜ俺がこんなに悪者にされなくてはならんのか、ちゃんと見ている人は見ているのだっ!
君たちはわかってない!と、何べんも何べんも怒られましたよ。

保阪 そこのところをコピーして晩年までずっと持ち歩いていたみたいですね。
僕はとうとう会えなかった世代ですけど、ある人からその話を聞きました。
「君のところに牟田口から連絡はこなかったか」と。
どうやら昭和史の研究者のところには自分から電話して、そのコピーの内容を説明しにやってきたそうです。
最後のころはその話ばかりで鬼気迫るものがあったと。

半藤 たしかにそうでした。すごい勢いでしたよ。自己顕示欲の強い変わった人でしたね。
インパール作戦の当時、ビルマでだれがつくったのか知りませんが
「牟田口閣下のお好きなものは、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女性の意)、
三に新聞ジャーナリスト」という冷やかしの歌が流行ったのだそうです。
牟田口の功名心の強さは当時もそうとう目立っていたのです。

保阪 私は牟田口には会えませんでしたが、インパール作戦に参加した元兵士には
ずいぶんお会いしました。彼らには共通する言動がありまして、大体は数珠を握りしめながら話すのです。
そして牟田口軍司令官の名前を出すと、元兵士のだれもが必ずと言っていいほどブルブル身を震わせて怒った。
「インパール作戦での日本軍兵士の第一の敵は軍司令官、第二は雨期とマラリアの蚊、第三は飢餓、
そして英印軍はやっと四番目だと戦場で話し合った」と言う生存兵士もいました。

 牟田口が前線から離れた「ビルマの軽井沢」と呼ばれた地域で栄華をきわめた生活をしているといううわさは
矢のように前線の兵士に伝わっていたようですし、実際に牟田口はそこからひたすら「前進あるのみ」と命令をだしていた。

半藤 しかも作戦の失敗を部下の三人の師団長たちに押し付けて、自分は責任を問われぬまま生き延びたんですから、
前線にいた兵士たちの憎しみは並大抵ではないはずです。

保阪 ええ。インドからビルマへ、仲間たちの死体で埋め尽くされた「白骨街道」を引き上げてきた無念の思いは
生涯消えることはなかったと思いますね。
 
半藤 牟田口は大敗北のあと19年の12月にいったん予備役にまわされますが、すぐに召集されて予科士官学校の校長になっています。
戦後は20年12月に逮捕されて巣鴨プリズンに戦犯容疑者として入りシンガポールに移送されます。
けれど罪には問われず釈放されて、帰国するのが23年3月ですね。

保阪 「あの男は許せない。戦後も刺し違えようと思っていた:と言った人、
「牟田口が畳の上で死んだのだけは許せない」と言った人もおりました。



そんな無謀な作戦が、なぜ決行されたのか。

つづく

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