犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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梧竹語録

2022年08月20日 | 書の道は
墨を磨る時には、無心で磨るのがよろしいと思う。

思いつつ、何かを読む。
イケナイ現代人だと思う。
「ながら」で「時短」とか考えるのは
時間に貧しい心だと思う。

思うけど、読む。



ずーっと敬遠していた毛筆での書を、6年前に始めた。
誰に習うわけでもなく、ただ手本を見て書く。

すぐに、臨書ということをおぼえた。
中国の、二千年前の石碑の拓本だとか、
スゴい書家の書いたものを写したとされる版本などを
ひたすらに真似て書く。

楷書から始めて、行書ちょっとやって、
そうするうちに、草書は崩して書いたものじゃないと知って、
更に隷書を知り、ことのついでだとばかりに
篆書へと遡った。
甲骨文字は毛筆で書く意味が分からないので、やっていない。
そのうち、庭に埋めた愛犬の骨を掘り出して、太占でもやったら
刻んでみるかもしれない。

石碑の隷書がウソくさく見えてきた頃に、
簡牘が発掘されていることを知って、肉筆の隷書を臨書した。
今んとこ、簡牘の隷書が一番、書いていて楽しい気がする。

楷書は肩が凝る。
草書を書きこなすほどの勢いはまだ無い。



臨書していて、書いた字の形が手本そっくりに書けるようになったりする。
筆をうまく使うと、そっくりに書けるのだ。
そんなことをしていると、手本を見た時に、どのように筆を使ったのか、
分かるようになってくる。

でも、字に宿る気と言うか、書の勢いのようなものは
形だけを似せてもついてこない。
形を似せることに気を払い過ぎると、
自分の、字を書こうという気持ちがそげてしまう感じだ。

草書を臨書することで、
字に乗る勢いや、そこにある呼吸を身に付けたいと考えている。



暑いと集中力が出ないから。とか
寒いと身体がうまく動かないから。とか
湿気が高いと墨がにじむから。とか

何かとサボる理由はいっくらでも見つかる。
どんどんサボる。

書初めの練習をしたっきり、ほったらかしである。



書初めには、篆書を書こうと練習していた。
まあ、今年のうちには書き上げよう。そのうちね。

篆書というものも、毛筆で書く意味がよく分からない。
デザイン的に優れており、ハンコに刻むにはとてもステキだと思う。

そう思いながら稽古するから、どうもはかどらない。
そういう思いを取っ払うことができたら、
いきいきとした篆書が書けるだろう、と思いながら、
突破口が見付からずにいた。



古本屋で買った、
季刊「墨」スペシャル19
中林梧竹の特集号が手元に有るが、まーるで読んでいなかった。

ぴらぴらめくって読みながら、墨を磨る。

私はどうも疲れやすく、集中力がもたない。
それでも、書を始めた頃は楽しくて、一時間以上は書き続けていた。
今はそんなにもたない。
墨もそんなに要らない。

そんなちょびっとの墨を磨るだけの間なので、
何かを読むと言っても、ちょっとしか読まない。

学びの有る本を読むのも、やっぱりちょっとしか読めない。
あんまり濃い内容をたくさん読んでも、頭に入らない。
食べ過ぎたら下痢しちゃうのとおんなじような感じだ。

だから、少しの墨を磨りながら、少しだけ読んだ。

そうして、梧竹の篆書に「ぎゃー」となった。
書初めの練習の際に、いろいろな書家の篆書を見てみたけれど、
どうもピンと来なかった。
どうしたら線に息吹が入るのか、分からなかった。

しかし、ぴらっと本をめくって見た梧竹の篆書は生きていた。



その次のページに、梧竹の言葉があった。

「指、筆ヲ転ズル者ハ下也。
腕、筆ヲ転ズル者ハ上也。
未ダ心、筆ヲ転ズル者ニ如カズ。
指、筆ヲ転ズル者ハ指端ノ芸に過ギザル也。
腕、筆ヲ転ズル者ハ進メリ。
然レドモ猶ホ腕頭ノ芸ノミ。
心、筆ヲ転ジ、而シテ後ニ始メテ心芸ト称ス可シ。」

「指先で筆を操ってるようじゃダメよ。
腕から書くのが良いけど、そんでも心で書くほどじゃねえよ。
小手先の芸を超えるには、心で書いてやっとそう言えるってことよ。」

自分の課題として意識していることを通して読むと、そんな意味になると思う。
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